名古屋短期大学付属高校(現桜花学園高校)在校3年間で、ウインターカップ3連覇に加え、インターハイ優勝2回、国体優勝2回と7度の全国タイトルを獲得。以降も日の丸を背負って世界の舞台に飛びだし、長きにわたってキャプテンも務め、2010年には世界大会で得点王を獲得した。トヨタ自動車アンテロープス所属の大神雄子はまさに女子バスケットボール界の“レジェンド”と呼ぶにふさわしい存在だ。得意のワンハンドシュートと持ち前の向上心で、未開の地を切り開き、日本バスケットボール女子初のプロ契約選手となった。海外挑戦の先駆者としても知られる大神だが、豊富なキャリアの中でも特別な想いを寄せるのがウインターカップだ。その輝かしい経歴と、数々の偉業におごることなく、一つひとつの質問にしっかりと耳を傾け、ハキハキと、そしてカメラマンが驚くほどクルクルと変わる魅力的な表情で、自身と、特別な思い入れがあるウインターカップについて、たっぷりと語ってくれた。
インタビュー=村上成
写真=三浦彩乃
――名古屋短期大学付属高校に入学した経緯を教えてください。
大神 初めて名短を知ったのは、小学校6年生の時です。ウインターカップの中継を見て知りました。名短の三木聖美さんと、永田睦子さんがいた長崎の純心女子高校の決勝をライブで見て、「あー、名短に行きたい!」と思いました。ただ、山形の田舎から、どうやってこの高校に行けばいいのかわからなかったし、どうやったら自分を見てもらえるか、と考えてみて、全国大会に出るしかないなと思ったんです。それでまず、ミニバスケットボールで全国大会に出場したんですけど、すぐに負けちゃって(苦笑)。次の目標を全中(全国中学校体育大会)に定めて、中学校ではとにかく「名短に行きたいがために」ひたすら練習しました。目標をしっかりと定め、強い思いでバスケットボールに取り組んだおかげで中学2年生と3年生の時に全国大会に出て、名短から声を掛けてもらいました。
――そこまで考えて全国に行こうと考えるのはすごいですね。
大神 向上心とか好奇心とかはもともとあったんですけど、名短に行くことしか考えてなかったですね。当時は山形県内にも山形商業高校などの強豪もあったのですが、私は、テレビで見た憧れの名短に行きたいと思っていました。だから、名短に進学することに、全く迷いはなかったです。山形から名古屋へ越境入学することに関しても、親元を離れることに対しても全く不安がなく、自分で決めてしまって、顧問の先生や両親には相談せずに事後報告でした(笑)。
――小6でそこまで考えているから、全く揺らがなかったわけですね。実際に山形から親元を離れて、名古屋へやってきてホームシックとかなかったのですか?
大神 最初は全くなかったです。父親もバスケの指導者で、中学までは父親に厳しく指導してもらったのですが、高校で井上眞一先生に指導してもらうようになって、父親がまず、私を手放したというか、バスケットに口を出さなくなりました。そこに寂しい感情はなかったのですが、生活の部分で慣れないことも多く、バスケに手がつかない時期もあり、それもあって、インターハイの決勝で負けてしまったんです。進学は自分で決めたことなので、家族にも電話をしなかったですし、意地になっていた部分もあったのですが、今思えば、あれはホームシックだったのかもしれません。父親も父親で、井上先生に任せたのだから、何も言わないというスタンスでしたけど、それが私にとっても寂しくもあり、それまで父親に頼っていた部分もあったのかなと。そういう環境で助けてくれたのが、当時10人いた同級生でした。みんな越境だったので。
――名短へ入学してからのレベルや練習の違いをどう感じましたか?
大神 練習がとても細かいなと感じました。ファンダメンタル(技術的、戦略的な基礎力や判断力)がすごくしっかりしていて、中学校まではとにかく試合を重ねて試合勘を磨き、全国で準優勝まで勢いで行った部分もありますが、それでは培われない細かい動きや練習には戸惑いました。正直、他の高校では、そこまで細かい練習はないと思いますけど、ヘルプ(ディフェンス)の細かい寄り方とかオフェンスチャージングの取り方など、細部にわたる指導や練習も多いので、必然的に練習は長くなるし、知らない用語が飛び交っていたので、それも戸惑いましたね。
――試合に出始めたのはいつ頃からですか?
大神 1年生の最初からスタメンで使ってもらいましたが、うまくいかないことも多く、悩んだ時期もありました。特に当時は中学校と高校では使うボールの大きさが違いましたし、私は女子では珍しくワンハンドでシュートを打っていたので、距離が飛ばなかったりなど、戸惑いがたくさんありました。上級生の皆さんに遠慮するとかはありませんでしたけど、環境の違いに対応するのに苦労しました。先輩方が本当に自主練含めて、しっかり練習する方々ばかりだったので、スタメンで出ている自分は、先輩よりも長く練習しなければならないし、先輩よりも1本でも多くシュートを打たないといけないと考えてバスケットに携わる時間がとにかく長くなりました。その気持ちがますます向上心を強くしたし、その頃の練習や環境が今につながっていると思います。
――1年生のウインターカップはどうでしたか?
大神 インターハイで負けた神奈川県立富岡高校(現神奈川県立金沢総合高校)が決勝の相手だったので、井上先生も先輩たちも気合が入っていました。お互い40点代と、良いゲームではなかったのですが、1点差でしたけど勝ててうれしかったです。ただ、その後のオールジャパンに向けた合宿がつらくて、その印象の方が強いですね(笑)。
――中学生時代に、外から見ていたウインターカップと実際に出場しての印象は違いましたか?
大神 その年はインターハイ、国体、ウインターカップと出場したのですが、ウインターカップは本当に独特で、バスケットボールだけをやる一番の祭典ですし、あの東京体育館を1週間くらいを借りきって、本当にバスケットボールだけで盛りあげる、あの雰囲気ががたまらないですよね。どこのチームも優勝する気持ちで臨んできますし、自分たちも主役になるんだ、という気持ちで戦っていました。
――2年生のウインターカップにはどのような思い出がありますか?
大神 2年生の時は3冠が懸かっていたので、先輩たちと何としても3冠を取りたい、という強い気持ちで臨みました。私が経験した中では、1年、2年の中で出場した全国規模の大会では、6回の決勝のうち4回を富岡と戦ったのですが、本当に、富岡との試合は燃えました。3冠を取りたいという先輩たちの気持ちについていくだけだったので、1年生の時のような葛藤もなく、3年生の時の最終学年としてのプレッシャーもなく、正直3年間の中では、気持ち的に一番余裕がありましたね。
――3年生のウインターカップはどうでしたか?
大神 3年生の時は、その直前にU-18日本代表のアジアジュニアの大会があって、組み合わせも変則でした。大会が行われたインドから帰ってきて、そのまま東京に乗りこんで、次の日からすぐ試合という感じで。連戦、連戦、連戦というタイトなスケジュールで、特殊な環境でしたし、あっという間に終わっちゃった大会でしたね。
――体力的にもキツかったですか?
大神 体力的には、まあ大変でしたけど、でも……もともとウインターカップには強い思い入れがあったので、もっとちゃんと準備して「ウインターカップに行くんだぞ」という強い思いを持って試合に出場したかったです。直前にアジアジュニアがあったので、アジアジュニアのための準備をして、インドへ行って、そのまま東京に行って、5試合戦って、はい終わり、という感じで、優勝はできたんですけど……・。自分がとても大好きなウインターカップに、ちゃんと準備をして臨みたかったというのが本音です。欲を言えば(笑)。それだけ特別な大会ですね、ウインターカップは。
――3年連続で優勝して、特に印象に残っている試合はありますか?
大神 3年生の時の最後の決勝は、1年生の時からスタメンを一緒に張っていた選手が準決勝で捻挫をして、決勝は出られないんじゃないか、という状況だったんです。でもチームが団結して、井上先生も最後にその選手を出してくれて、最後を終えることができた時には感動しましたね。最後にみんなで戦えたというのは思い出に残ってます。
――3年間の集大成ということもありますし、高校バスケの卒業式のような気持ちになりますよね。
大神 本当にそうですね。一つ残念なのは、なぜ、その時に板前さんみたいな髪型をしてたんだ、ということですね(苦笑)。セットもせずに、インドから帰ってきたばかりだったので、刈上げが伸びたような。何で最後の集大成なのに、何で最後の舞台で、そんな髪型なんだって(笑)。
――それもまた良い思い出ですね(笑)。ウインターカップ3連覇、高校7冠という結果を入学前に想像していましたか?
大神 私は9冠を狙っていましたので、逆に残りの2つの方が印象に残っています。1年生のインターハイと3年生の国体は、今でもよく憶えています。優勝した大会は……3年生の決勝は憶えているのですが、他の試合よりは負けた2試合の方が印象に残っていますね。
――ウインターカップで得られた経験や、今に活かされていることはありますか?
大神 ウインターカップのみならずですが、大きな大会に出て経験した一つひとつの瞬間が今に活かされています。今でも12月になると「高校生いいなー」、「またあの舞台に立てるんだなあ」と思ってしまいます。自分の中では、いつまで経っても「ウインターカップっていいなー」って思うんですよね。
――なぜウインターカップは特別なんでしょうか。
大神 ウインターカップは特別なんですよね。バスケットボールだけの大会というのももちろんなんですが、東京体育館の大人っぽい、薄暗い雰囲気、カッコいい雰囲気、バスケットだけにフォーカスする雰囲気は特別ですね。私個人は、インターハイで1度負けてるし、国体も1度負けてますけど、ウインターカップだけは負けてませんから(笑)。
――ウインターカップも含め、これまで数々の実績をバスケットボール界で積んできた大神選手ですが、ご自身同様にバスケットボール界の中心にいる『ナイキ』のバスケットボールシューズはいかがですか?
大神 『エアフォース』とか『ジョーダン』シリーズって、コートで履いてプレーするために開発されたシューズなのに、私服に合わせて履くことができるのはいいですよね。魅せる力があるというのは本当にすごいと思います。タウンシューズとして出回っているのはバスケットシューズだけじゃないですか? そんな競技をやっているのが私の自慢です(笑)。
――普段履かれているシューズはどうですか?
大神 デザインがカッコいい。これがまず一番。今私が履いている靴はクッション性が抜群ですね。それが最高にいいです。軽量性、クッション性、履いた時のフィーリングが大事なので、革の柔らかさとか機能性は重視しています。
大神雄子(おおが・ゆうこ)
1982年10月17日、山形県生まれ、170㎝/62㎏。名古屋短期大学付属高校(現桜花学園高校)出身で、プロ転向後、国内の強豪クラブをわたり歩き、WNBAでもプレー。