2018.09.03

短期集中連載【バッシュのひもを解いて〜セカンドキャリアを語る】第1回 中川和之「バスケに出会ったのが最後。今さら生き方は変えられない」

昨シーズン途中に現役引退を決意した中川氏
2000年より、バスケットボール専門で取材活動中

アースフレンズ東京Zから契約解除が発表されたのは、2017-18シーズン半ばの1月13日。2月7日には自身のSNSを通じて現役引退を表明した。あまりにも突然だった発表の主は、中川和之。何故シーズン途中で選手生活に別れを告げたのか、これからどこへ向かうのか。その前に、本人の証言を基に選手としてのキャリアを振り返る。

取材・文=吉川哲彦
写真=中川和之氏提供、B.LEAGUE

大学卒業後、アメリカへ挑戦。日米4チームでプレーし、昨シーズン途中に引退

 小学3年時に双子の兄・直之とともにバスケットを始め、中学時代は全国準優勝、高校時代はインターハイベスト16。専修大学では2年時にインカレ初優勝、優秀選手の栄誉に浴した。決勝で涙を飲んだ4年時のインカレが終わってすぐに渡米し、独立リーグABAのロングビーチジャムに入団する。ここまでを振り返ると順風満帆、アメリカ行きも自然の流れに見えるが、常に自身を厳しい目で見つめる中川に言わせれば実情はそうではない。

「高校2年の時のナイキキャンプでコーチのトム・ニューウェルから『おまえはアメリカに行くべきだ』って言われたんですが、当時の僕はアメリカなんて行けるわけがないと思っていた。それが大学の時に、ロングビーチジャムが大宮(宏正/現千葉ジェッツ)を欲しいというので、チュウさん(中原雄/当時専修大アシスタントコーチ)にそそのかされて僕も行くことになったんです。トライアウトと知らず、練習参加するだけと思っていたのが受かってしまった。そこで人生が変わりましたね。もしかしたら高校の頃から無意識に願望はあったのかもしれないですが、『こんなチャンスがあるんだったら』と初めて素直になった」

 その後、日米の4チームを渡り歩くが、2008-09シーズンをbjリーグの高松ファイブアローズ(現香川ファイブアローズ)で過ごした後、JBLの三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)に入団。27歳で中川はアメリカ挑戦にピリオドを打つ。

「挑戦は27歳までと決めていて、シーズンが終わった後に受けるトライアウトで最後にするつもりでした。でもその前のシーズン中に英語で電話がかかってきた。それがアントニオ・ラング(当時三菱電機AC)からだったんですよ。三菱からは大学の時に1回目、アメリカでクビになった時に2回目、そしてこれが3回目のオファーでした。それでもう『自分にとっては運命的なチームなのか』と思って三菱と契約しました。その後NBAのDリーグ(現Gリーグ)のチームからコールアップみたいなものもあったんですが、Dリーグでプレーするのが目標ではないので断りました」

 三菱電機で4シーズン、つくばロボッツ(現茨城ロボッツ)で3シーズンを送った後の2016年、移籍を決めていた中川は尊敬する小野秀二(当時東京Zヘッドコーチ)から直接誘いを受け、「すごくリップサービスしてくれて気分良くなっちゃった(笑)」と東京Zを選択。漠然と「40歳くらいまでは」と考えていたが、結局1シーズン半で引退を決断することになる。

昨シーズンは10月に負ったケガの影響もあり、わずか1試合の出場にとどまった[写真]=B.LEAGUE

「一言で言えば『電池が切れた』ということです。モチベーションを維持するのがきつかった。肉体的にはまだやれなくはなかったんですが、気持ちが先に切れてしまった。昔から嘘がつけない性格なのでいずれボロが出てバレるだろうと。ファンの皆さんの前で取り繕うのが一番苦痛になるんです。若い時はただ上手くなりたいだけで突き動かされたけど、今は例えばB1で優勝を目指すチームから必要とされるとか、誰かのためにとか、自分を奮い立たせるものがないと無理。そんな中途半端な奴がお金を貰っちゃダメでしょう。自分にとっての“プロフェッショナル”というところにも反してしまう。そこは譲れなかった」

「日本代表のメダル獲得に貢献できる人間になる」ため指導者の道を選択

 東京を引き払った中川は一時的に妻の実家に身を寄せ、2月に入っても次の仕事が決まらなければ「ラーメン屋で働こうと思っていた」という。しかし、直接会って引退を報告したばかりの小野元(元東芝ブレイブサンダースほか)から2月1日未明に電話が入る。それが現職・環太平洋大学(岡山県)女子バスケットボール部監督への道しるべだった。

現在は環太平洋大学女子バスケ部の監督を務めている

「実は関東大学1部とか高校のマンモス校とか、お話はいただいていたんです。でも、そこは変な話何もしなくても結果を出せる。それより、見たことも教えたこともない田舎の女子の選手、チームを成長させることができればどこでも通用すると思うので、その経験を買おうと思ったんです。山口県出身で、同じ中国エリアへの恩返しにもなるので即決でした。『日本代表のメダル獲得に貢献できる人間になる』、その目標は昔からブレていません。アンダーカテゴリーにこそ日本を強くするカギがあると思いますし、今の仕事は腰を据えてやります。指導者は楽しいですよ、初めての公式戦が終わった時は感動で震えましたもん。『もっと早く辞めりゃよかった、タイミングミスったー』って(笑)」

「日本代表のメダル獲得に貢献できる人間になる」、その目標は昔からブレていない

「バスケに出会ったのが最後。今さら生き方は変えられない」と笑う中川。今度は指導者として、“カズ”の名が再びバスケ界にとどろく日を待ちたい。

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