2016.12.22

能代工のいないウインターカップ、OB山田が鼓舞「能代の選手であることを自覚してほしい」

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能代工業高校がウインターカップの秋田県予選準決勝で秋田工業高校に67-76で敗れた。第1回大会から46年連続で本大会に出場、そのうち20度頂点に立った栄光の歴史に思わぬ形で傷がついてしまった。能代工のいないウインターカップ――バスケットボールファンが想像だにしていなかった光景に、能代工OBは何を思うのか。横浜ビー・コルセアーズに所属する山田謙治が、自身が在籍していた時代を振り返り、再び立ちあがろうとする後輩へ、名門校としての矜持を取り戻すよう発破を掛けた。

インタビュー=安田勇斗
写真=大澤智子

――横浜市出身ですが、どういう経緯で能代工業高校に入学したのでしょうか?
山田 所属していたミニバスチームの、監督の息子さんが能代にいて、進路をどうしようか悩んでいる時に、監督から「練習に行ってこい」と言われたのがきっかけです。

――南希望が丘中学校時代は秋田で行われた全中(全国中学校バスケットボール大会)に出場していますね。
山田 はい、中3の時に出場しました。その前に練習に参加させてもらいましたが、全中でも直接見ていただいたと思います。

――もともと県外の高校に進学するつもりだったんですか?
山田 そこまで考えてなかったですね。今同じチームでプレーしている蒲谷(正之)選手がいた横浜商科大学高校からも声を掛けていただき、悩んでました。ただ練習に参加して、ちょっと違うなと感じるものがあって、中学校の恩師にも相談して能代に行くことにしました。

――親元を離れるのは思いきった選択だと思います。当時からプロを意識していたんですか?
山田 全然意識してないですよ(笑)。好きなスポーツを続けたいなという想いと、全国からいい選手が集まってくるので自分の力がどれだけ通用するかを確かめたい気持ちがあって行っただけで。

――実際に能代工に入って驚いたことなどはありますか?
山田 最初はみんなが何を言ってるのかわからなくて(笑)。標準語を話しちゃいけない空気があって、みんな秋田弁でしゃべるんですよ。僕の代は関東から来ていた選手が何人かいたんですけど、そいつらとしゃべる時しか標準語は話しませんでした。最初は秋田弁がしゃべれないので、先輩とは必要最低限のことしか話さず、チームのミーティングの時は本当に気を遣いましたね(笑)。

――(笑)。練習はいかがでしたか?
山田 練習時間はそんなに長くなかったです。午後3時半ぐらいに始まって6時前には終わってました。練習メニューもいつも同じでしたね。僕自身は全体練習とは別に2時間ぐらい自主練をしてました。

――全体練習で特に力を入れていた練習は?
山田 当時はゾーンディフェンスが注目されてましたけど、実際はそんなにディフェンスの練習はしてなかったんです(笑)。先輩のプレーを見て覚えたというか。あとは感覚ですね。やっていくうちに感覚が磨かれて、できるようになった感じはあります。あと僕の代に秋田出身の選手がいて、そいつがゾーンディフェンスのスペシャリストだったんですよ。ポジションの取り方や相手に仕掛けるタイミングなどを習って、それは今でも活かされています。

――練習はキツくなかったですか?
山田 ずっと怒られたのはキツかったですけど(笑)、練習自体はキツくなかったです。同じ練習の繰り返しだったのもあって、体が慣れてくるんですよね。

――具体的にどんな練習メニューだったんでしょうか?
山田 アップしてちょっとディフェンスの練習をして、ファーストブレイクの練習をして、フォーメーションの確認をしてって感じでした。5対5は滅多にやらなかったです。ひたすら反復練習でしたけど、そのおかげで一つひとつのプレーに対して考える力がついた気がします。

――自主練2時間は長い気もします。能代工の強さは選手個々の自主練によるところも大きいのでしょうか?
山田 それもありますけど、もちろん(加藤三彦)監督の指導もあったと思います。監督は50パーセントを教えて、あとの50パーセントは自分で考えなさい、というスタンスでした。だから自分で考えてプレーしたり、いろいろな人に聞いたり、そうやって自主的に行動して成長できたんだと思います。

――強豪校は先輩後輩の上下関係が厳しいところも多いです。
山田 1年生の時は上級生が本当に怖かったです(笑)。暴力はなかったですけど、強い口調で言われたり、威圧されたり。でも今は、そういう先輩も僕の試合を見に来て応援してくれるので、ありがたいですしうれしいですね。

――能代工ではいつ頃から試合に出られるようになったんですか?
山田 ウインターカップでメンバーに入って、その後の新人戦で使ってもらえるようになりました。

――2年生からスタメンで出場しています。
山田 はい。この年はインターハイで優勝して、国体で3位に入ったんですけど、ウインターカップは1回戦負けでした。

――シード校で初戦となる2回戦で負けたということでしょうか?
山田 そうです、そうです。四日市工業高校に負けて(82-83で敗北)。桜井良太レバンガ北海道)選手にダンクを3、4本決められました(苦笑)。

――その翌年、3年生では堂々たる成績を残しました。
山田 そうですね。インターハイで連覇して、国体が2位、最後のウインターカップで優勝できたので。

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――間もなくウインターカップが開幕しますが、3度のウインターカップで特に印象に残っている試合は?
山田 やっぱり四日市工業高校に負けた試合ですね。悔しさをとおり越して、ヤバいなって。その後の練習が案の定、キツかったです(笑)。僕自身はメンバーからも外されました。ウインターカップが始まる前は「来年のキャプテンはお前だ」って言われていたんですけど、Bチームに落ちて4月ぐらいまでAチームに戻ってこられませんでした。

――キャプテンには就任したんですか?
山田 チームキャプテンが僕で、ゲームキャプテンは別の選手がやりました。僕らの代だけキャプテンが2人いたんです。

――高校3年間で良い思い出などはありますか?
山田 ずっと怒られっぱなしだったんで、いい思い出がないんですよ(笑)。最後のウインターカップで優勝しましたけど、そこでも最後まで怒られてましたから。

――日々のミーティングなどでもずっと怒られるんですか?
山田 いや、僕らは選手だけでミーティングをしてたんですよ。監督が入ることはなかったです。自分たちでスカウティングしてミーティングして、対戦相手の対策も話し合っていました。

――そこも、監督が選手に考えさせている部分なんですね。
山田 そうだと思います。他校のミーティングがどんな感じかはわからないですけど、うちは対戦相手のデータを自分たちで取ってきて、スタッツなども見たりしながら、選手同士で意見を出し合っていました。それで話し合った内容をマネージャーがまとめて監督に提出していました。

――ちなみに、加藤監督とは今でも連絡を取っているんですか?
山田 シーズンが終わったタイミングで、急に電話が鳴ることがありますね。着信があるとドキッとしますけど(笑)、結構気に掛けてくださっているので本当にありがたいです。

――1年の最後の大会であるウインターカップで得られた経験、今に活かされていることはありますか?
山田 自分で考えてプレーするという土台は、高校生活やウインターカップで得られたと思います。優勝するためにどうすればいいかを考えて実際に優勝できた経験は、今の自分にも活かされていると感じてます。

――当時、ライバルと呼べる高校はありましたか?
山田 洛南高校ですね。1年掛けて強くなるチームという印象があって、夏のインターハイで2回戦負けでも、冬は着実に力をつけてだいたいベスト4には入ってました。自分たちはたまたま勝てましたけど(2001年大会準決勝で対戦、93-86で勝利)、僅差でしたし、相性の良さもあって勝てたのかなと思います。あとは大濠(福岡大学附属大濠高校)。個々のスキルが高かった印象がありますね。

――ではすごいと思った選手は?
山田 今京都ハンナリーズにいる東住吉工業高校の佐藤託矢選手ですね。インターハイの準決勝で戦ったんですけど(113-101で勝利)、その時から体が大きくてインパクトがありました。

――話は変わりますが、今年のウインターカップでは能代工が予選で敗れ、本大会出場を初めて逃しました。率直な感想は?
山田 本当にヤバいと思いましたよ。OBとしてはすごく残念です。でもこの結果を、1、2年生がどう捉えるかですね。僕たちの頃は全国でも負けが許されない空気があって、予選敗退は全く考えてなかったですから。実際、四日市工業高校に初戦で負けた時は全国大会でしたけど本当につらい想いをしましたし。でも今の後輩はOBに対して「何回戦で負けたんですか?」って聞いてくるみたいで。そういう言葉が出てくるのは、負けることを想定してるからなんですよ。そういう意識がもう違うなと。

――能代工は毎年全国大会で優勝している名門校というイメージがあります。
山田 確かに能代という名前に委縮してしまうチームはあったかもしれないです。僕らは僕らで必死でしたけど(笑)。

――県予選敗退はどういう形で知りましたか?
山田 『Yahoo!ニュース』のトップに載ってて知りました。そこに載るぐらいの大きな出来事だったということですよね。

――当時のチームメートやOBとそのことについて話しましたか?
山田 あるOBから連絡があって、「復活させるために力を貸してほしい」と言われました。毎年ウインターカップの時期にOB会があって、僕はいつも試合で行けないんですけど、今年も試合があって行けそうになくて。先輩方が激励に行かれるので、いい刺激になればと思います。

――後輩の試合を見ることはありますか?
山田 昨年、一昨年と行けなかったんですけど、その前の年は見に行きました。がんばってましたけど、やっぱり留学生相手にリバウンドが取れてなかったですね。ルーズボールにしても、必死にやってましたけどもっと取れたと思います。自分たちの時もフィフティー・フィフティーのボールは絶対に取れと言われてました。そういう泥臭さが能代の武器なんですよ。自分たちはそうやった取った1本で試合の流れを変えていたんです。まずはそうした部分の意識改革が必要かもしれないですね。

――後輩たちには今後、どんなことを期待していますか?
山田 最優先は全国の舞台に戻ってくること、そのために能代の選手であることを自覚して試合に臨んでほしいです。全国大会に能代の名前がないのは寂しいし、決して全国に行けない選手たちではないと思うのでがんばってほしいですね。

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山田謙治(やまだ・けんじ)/横浜ビー・コルセアーズ 背番号13
1983年7月28日、神奈川県出身
180cm/84kg
能代工業高校3年次にキャプテンを務め、インターハイとウィンターカップの2冠を達成。法政大学や栃木ブレックスなどを経て、2011年に横浜ビー・コルセアーズの一員となる。主将を務め、コート上では司令塔としてチームをけん引する。

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