2018.12.18

馬場雄大(富山第一卒)が語るウインターカップ「あの負けがあったからこそ取り返そうと思った」

父親が指揮を執る富山第一で高校3年間を過ごした
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12月23日から29日の期間、武蔵野の森総合スポーツプラザにおいて、「SoftBankウインターカップ2018 平成30年度 第71回全国高等学校バスケットボール選手権大会」が開催される。全国高等学校総合体育大会(インターハイ)、国民体育大会(国体)、そしてウインターカップを高校バスケ界の3大タイトルとしているが、ウインターカップは最も注目度が高い大会でもある。

今回は冬の大舞台を経験し、現在トップリーグで活躍する選手たちを直撃した。第2回は、富山第一高校の2年次、3年次に出場した馬場雄大アルバルク東京)。2年連続初戦で涙をのんだものの、「あの負けがあったから」今の馬場がいる。日本代表選手の高校時代を探った。

インタビュー=酒井伸
写真=Bリーグ

■強豪校との差を感じた

――高校は地元の富山第一高校に進学しました。監督を務める父親、敏春さんの影響が大きかったのですか?
馬場 県外の高校に行こうと思っていましたが、2年のジュニアオールスターが終わった時に父親から「富山第一高校で(強化に)力を入れていこうと思う」、「ジュニアオールスターのメンバーを集めるから、お前がその先頭に立ってやってくれ」と言われて。少し悩んだ末、富山第一で父の指導を受けようと決断しました。

――父親の下ではやりづらさも感じたと思います。
馬場 試合に負けたり、自分のミスで勝敗を左右してしまったりしたら、家でオフになることができませんでした。練習中、チームの流れが悪い時は一番怒られていましたが、タフになったと思いますし、今に活きていると感じます。

――奥田中学校の坂本穣治コーチは先日、馬場選手について「中学の時はおちゃらけタイプだったけど、高校に行ってからかなり責任感が強くなった」とおっしゃっていました。
馬場 日本代表に関わり始めたことが大きく、常に誰かから見られているという意識を持ち、世代の代表である自分が責任を持たなければと思うようになりました。

――2年次に初めて出場したウインターカップは広島開催でした。58-111で敗れた能代工業高校との初戦を憶えていますか?
馬場 当時の能代は全盛期に比べると、まだ戦えるチャンスがあるかなと思っていました。しっかりと準備して試合に臨みましたが、大一番での強さを味わいましたし、僕は第2クォーター途中にねん挫してしまい、不完全燃焼でチームに迷惑を掛けてしました。

――それでも29得点12リバウンドと結果を残しました。
馬場 自分がいくら活躍したとしても、チームの勝敗に影響しなかったら意味がないと思っているので。自分が多く得点を取ったからなんだという思いでした。

――チームとしては試合序盤から順調に得点を重ねていましたが、途中から崩れてしまいました。
馬場 やはり強豪校との差を感じましたし、経験不足な一面が大一番で出てしまったと思います。僕たちは接戦の試合を経験することが少なく、いろいろなチームとの対戦で土壇場を経験している能代には強豪チーム独特の強さがあると感じました。

――大会中の過ごし方で気をつけたことはありますか?
馬場 高校時代はあまり気にせず、流れに身を任せるというか。ルーティンがあるわけでもなかったですし。ただ、富山県の代表として全国大会の舞台に来ているということは意識していました。

――翌年のウインターカップから東京開催に戻りました。
馬場 東京体育館はコートが4面あって、観客の数もすごいじゃないですか。あのような大舞台でプレーすることはなかったので、圧倒され、出鼻をくじかれてしまい、試合にも影響したと思います。当時は緊張するタイプでもあったので。

――東京体育館に特別な思いはあったんでしょうか?
馬場 日本代表で一緒にプレーした、強豪校に所属する選手の多くが1面になるまで残るだろうと予想していたので、自分も彼らと同じようにメインコートの舞台を経験したいと思っていました。しかし、3年生の時も1回戦敗退で、観客席から仲間の試合を見ていました。

――その1回戦では山形南高校に55-81で敗れました。
馬場 僕への守り方が本当に徹底されていて、ダブルチームだったり、ゾーンディフェンスで僕のところを重視して守られたり。オフェンスの行動が制限されたことでフラストレーションが溜まりましたが、それも相手の作戦だったのかなと思います。

――試合後、父親からは何と言われましたか?
馬場 何を言われたのか全然記憶になく、負けたことが自分の中で大きすぎて。負けを受け止めるのに時間が掛かりました。その1日だけとても凹んでいましたが、次の日以降は東京に残っても、富山に戻っても良かったので、(杉浦)佑成(現サンロッカーズ渋谷)とヤス(青木保憲/現川崎ブレイブサンダース)の大濠(福岡大学附属大濠高校)の試合などを見に行っていました。

ウインターカップでは悔しさを味わった

――大会では中学の後輩、八村塁(当時明成高校/現ゴンザガ大学)選手が1年ながらベスト5に選ばれる大活躍でした。
馬場 大濠と明成の決勝戦を会場で見ていましたが、塁は1年生とは思えないほどの得点力、ディフェンス力があって、中学時代と比べるとすごく成長したと感じました。

――観客として見るウインターカップはいかがでしたか?
馬場 羨ましいの一言でした。野球でいう甲子園のような大舞台で活躍することは今後に関わってきますし、自信にもつながります。県の代表同士が死闘を繰り広げている姿を見て、もう少し長くやりたかったなと思っていました。

■ウインターカップは“夢への第一歩”

――当時はどのポジションでプレーしていましたか?
馬場 僕がチーム中で一番大きかったので5番(センター)でしたが、その他のポジションもやっていました。5番を経験したことで、ディフェンス面ではポストアップの対応が今でも活きていると思っています。経験がある分、当時のプレーをアジャストしながら守る感じです。また、父親からポジション取りの部分についてよく言われていて、リバウンドやボックスアウト、ポストアップのタイミングは何度も練習して覚えました。

――現在の代名詞でもあるダンクは高校時代からできたそうですね。
馬場 高校1年の県大会で、速攻で両手ダンクに持っていったのが公式戦で初めてです。スティールからダンクまでのシーンは今も憶えていて、その時からなるべくダンクでいこうと意識していました。

――ダンクの練習はしていたんですか?
馬場 中学3年の時くらいから練習していて、決めた本数をやるまで帰らないと決めていました。最初は6号球やバレーボールを使って、徐々にボールのサイズを大きくしていきました。身体能力があると言われますが当時はそうでもなく、たくさん練習したからダンクができたと思っています。身長も190センチはなかったですし。

豪快なダンクで観客を沸かせている [写真]=B.LEAGUE

――観客の反応もすごかったと思います。
馬場 ダンクとレイアップでは全然違うので「まじか……」、「ダンクしたぞ、あいつ」みたいな。うれしかったですし、少しだけ優越感に浸っていました。

――ウインターカップ2度の出場で一番思い出に残っていること、高校バスケを通じて学んだことを教えてください。
馬場 いい思い出よりも悔しい思い出しかないですね。ただ、あの負けがあったからこそ(筑波)大学で取り返そうと思いましたし、実際に1年目から日本一を取ることができました。ウインターカップの悔しさがなければ、あそこまで奮起することはなかったと思います。高校3年間ではバスケに向き合う姿勢を学ぶことができました。中学時代は真剣に取り組みながらもどこか抜けているというか、自分で考えないで監督に任せていた部分がありました。高校では代表に選ばれたことで、自分で考えたり、普段の練習への取り組みが変わったりして、バスケの技術だけではなく、バスケに向き合う姿勢やメンタル面も伸びたと思います。父親からも「俺が全部言うんじゃなく、自ら考えてどうすべきかを判断していく必要がある」と言われていましたので。

――馬場選手にとってウインターカップとは?
馬場 “夢への一歩”です。今はBリーグが確立して、プロのコーチが試合を見に来るかもしれません。そこで活躍できれば将来につながるということを、選手たちは考えているはずです。あの大学に行きたい、あのチームに入りたいということを考えたら“夢への第一歩”だと思います。

――出場選手に向けたメッセージをお願いします。
馬場 ウインターカップのために1年間やってきたと思いますし、それまでには苦しさや大変さもあったと思います。大会中は都道府県の代表ということを忘れず、責任や自覚を持って行動してほしいですし、コートに入ったらとにかく楽しんでください。また、短期決戦のトーナメントなので勢いを意識してほしいです。リバウンドやルーズボール、泥臭いプレーをがんばることでチーム全体が盛りあがって、勢いづくと思います。

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