2020.10.20

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.10】平井美喜「熊本地震で再確認した車いすバスケへの思い」

東京パラリンピックを目指す代表候補の一人、平井美喜[写真]=JWBF / X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

Vol.9で登場した九州で唯一の女子チーム「九州ドルフィン」の創設者・南川佐千子が「チームを任せられる存在」と全幅の信頼を置くのが、平井美喜。2014、15年には車いすバスケットボール女子日本代表のキャプテンを務めた平井。現在も日本代表候補の一人として、来年の東京パラリンピックを目指す選手の一人だ。

メダリスト5人がいるチームへの加入

 2歳の時に病気で両下肢麻痺となり、車いすで生活をするようになった平井。高校まで熱中したのは音楽で、中学、高校は吹奏楽部に所属していた。高校は親元を離れ、九州では指折りの吹奏楽部がある学校に入った。2年の時にはアメリカ、3年の時には韓国と、海外で演奏した経験もある。

 そんな平井が音楽から車いすバスケの世界へと転じたのは、高校卒業後のことだった。実は高校1年生の時に一度、知人の誘いで試合を観に行ったことがあった。その時に目にした、生き生きとした選手たちの表情が強く印象に残ったという。

「私は高校まで一般の学校に通っていました。だからみんなはできるのに私だけできないことがたくさんあって、“なんで私だけ……”という思いがどこかにあったんです。でも、車いすバスケの試合を観に行ったら、みんなすごく明るかった。会場までも自分で運転をして、自分で荷物を運んで、準備して……。試合では激しくぶつかり合ってボールを追いかけていて、すごくカッコいいなと思いました」

 そんなふうに自分もなりたい、と思った平井は、高校卒業後をしてすぐに九州ドルフィンに加入した。すると、そこには世界を相手に戦う選手たちがズラリと顔をそろえていた。当時の九州ドルフィンには、女子日本代表選手が5人もいたのだ。

「私が入って数カ月後に、シドニーパラリンピック(00年)があったのですが、そこで女子日本が銅メダルを獲得したんです。そのメンバーに九州ドルフィンの先輩が5人もいて、“すごいところに入ってしまった”と思いました(笑)」

 高いレベルで練習することができた反面、先輩たちにはなかなか追いつくことができず、平井は長い下積み生活を送り続けた。車いすバスケを始めて3年目の02年からは若手の有望選手として代表候補の合宿にも呼ばれるようになっていたが、チームではなかなか出番は訪れなかった。ようやく初めて公式戦に出場したのは、加入して5年目のこと。メダリストの先輩たちからバトンを受けるようにして、平井はチームの中心選手となっていった。

5人のパラリンピック銅メダリストを輩出した九州ドルフィン。平井は今、その柱として活躍している[写真]=JWBF / X-1

「諦めない」信念で目指す東京パラ

 07年の大阪カップで日本代表デビューを果たした平井は、それ以降は常に12人のメンバーに入るようになった。14年のアジアパラ競技大会(韓国)からはキャプテンにも抜擢された。

 しかし日本代表活動を振り返ると、辛い思い出しか残っていないという。08年北京パラリンピックでは4位と健闘したものの、3位決定戦での敗戦は悔しさしか残らなかった。そして、自分自身にもふがいなさを感じていた。

「勝って終わるのと負けて終わるのとでは大違い。そして、メダルを取ったか取らなかったかでは天と地ほどの差がありました。メダルゲームを戦った4チームのうち、私たち日本だけが表彰台に上がることができなかった、あの悔しさは本当に忘れることができません。私自身も決勝トーナメントでは一度もコートに立つことができませんでした。だから次は絶対に自分がコートでプレーして、メダルを取ると強く思いました」

 しかしそれ以降、日本はより厳しい状況にある。それまで格下だった中国がアジア・オセアニア一の強豪国となり、日本はパラリンピックへの切符を逃し続けている。そして平井自身も16年以降、代表12人のメンバーに入ることができず、もがき続けている。

 それでも、決して諦めるつもりはない。なぜなら、バスケは自分自身そのものだからだ。そんな自分の気持ちを再確認したのは、16年のこと。その年の2月に行われた大阪カップで、平井はメンバーから外れた。それは07年に代表デビューをして以降、初めてのこと。それだけにショックは大きかった。

 さらに平井を襲ったのは、その年の4月に起きた「熊本地震」だった。平井が住む熊本の実家も断水の状態が続き、当時勤めていた施設に泊まり込む日々が続いた。そしてその間、体育館は避難所となり、当然バスケの練習どころではなかった。

 5月には日本代表候補の合宿が控えていたが、辞退することも考えていた。だが、平井は参加する決心をした。

「どうしようか迷ったのですが、大阪カップで選考から落ちたばかりだったこともあって、このままでは終われないと思いました。それに、支えてくれている人たちへの恩返しは、やっぱりバスケでしかできないなと。自分からバスケを取ったら何もないじゃないかと思ったんです」

 体を動かす程度の練習しかできないまま、平井は合宿に参加した。そこで2カ月ぶりに体育館でバスケをした際、「バスケが好きなんだ」と改めて感じたという。

「こんなにもバスケ一筋なんだということに気づかされた感じでした。それに目標を持って、みんなで一つの方向に向かっている仲間たちの存在が、私には支えでもあるんだなと。もちろんライバルでもありますが、それこそ若い選手たちが頑張っているのを見ると、すごく刺激になるんです。だから絶対に諦めません。最後までみんなと切磋琢磨して、東京パラリンピックを目指します!」

 どんなにいばらの道でも、最後まで粘り強く挑戦し続けていくつもりだ。

15年アジアオセアニアチャンピオンシップス以来の代表復帰を目指す[写真]=JWBF / X-1

(Vol.11では、平井選手が注目している選手をご紹介します!)

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