2020.10.28

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.11】緋田高大「試練を乗り越えてつかんだ代表としての自信」

昨年のAOCで実力を発揮しチームに大きく貢献した緋田高大(中央)[写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文・写真=斎藤寿子

 Vol.10で登場した宮本涼平(LAKE SHIGA BBC)が羨望の眼差しで見ていたのが、緋田高大(千葉ホークス/Gunosy)だ。緋田がLAKE SHIGA時代には一緒にプレーしたいと京都のチームから移籍したほどの尊敬ぶり。今や日本代表の主力となりつつある25歳の緋田。昨年のアジアオセアニアチャンピオンシップス(AOC)での強豪オーストラリア戦では、彼の存在なくして劇的な逆転勝利はなかったと言っても過言ではない。しかし、ここに至るまでにはいくつもの試練があった――。

自信をつかみかけた先に待っていた試練

「僕の競技人生は、本当に山あり谷ありという感じですね(笑)」

 今年で14年目となった車いすバスケットボール人生について、緋田はこう語る。特にこの4年間は、まさに「山あり谷あり」だった。

 2016年のリオパラリンピック前から注目の若手として日本代表候補の合宿にも招致されていた緋田。しかし、当時はまだパラリンピックや日本代表は遠い世界のことだったという。

 日本代表としての自覚を持ち始めたのは、17年。翌年の世界選手権の切符をかけて行われたAOCだった。グループ予選ではベンチを温めることが多かったが、アジア最大のライバル、イランとの準決勝では大事な局面を任された。

 実は、体調不良で欠場した選手に代わっての抜擢だった。しかし、緋田にとっては大きなチャンスであったことは間違いない。そして実際、指揮官の期待にしっかりと応えてみせた。これまで控えだったとは思えないほど、彼のプレーはチームに勢いを与えていた。結果、負けはしたものの緋田への評価は高く、さらなる期待が寄せられた。

「あのイラン戦は、ゾーンに入っていた感じで、体は疲れているはずなのに、全く疲れを感じませんでした。初めて大きな自信をつかむことができました」

 ところが、翌18年からは試練が続いた。ジュニア時代からライバルだった同世代の選手が、新しくA代表の強化指定選手に選出されると、出場機会は激減。ライバル選手は緋田を一気に抜き去るかのように主力への階段を上り始めていた。

「この時期は本当に辛かったです。海外遠征のメンバーに入っても、自分だけが出ない試合もあったりして……」

 この年に開催された世界選手権でも、緋田は12人のメンバーにこそ入ったものの、出場機会はほとんど与えられることなく終わった。10代の頃から切磋琢磨してきたライバル選手の台頭に、悔しさと焦りを感じていた。だが、それを決して周りに見せることはなかった。いつも淡々とやるべきことをやり、いつ呼ばれてもいいように準備をしていた。

 そんな緋田の姿を尊敬と感謝の気持ちを抱きながら見ていた選手がいた。日本人で唯一のプロとして活躍する香西宏昭(NO EXCUSE)だ。後に香西はこう語っている。

「緋田は大会期間中、一度も嫌な顔をしたり怠慢な態度をとったりすることはありませんでした。絶対に悔しいはずなのに、それを表に出すことはなかったんです。若いのにすごいなって思っていたし、彼がしっかりと自分の仕事をしてくれたおかげでチームはうまくいったのだと思います」

プレー時間が少なくても腐らずに“やることをやり続けてきた”ことが今実を結んでいる[写真]=斎藤寿子

コート上で悔しさを晴らし自信をつかんだAOC

 しかし、緋田の前にはいばらの道が続いた。それまでは出場機会は少なかったものの、それでも大事な大会では12人の代表メンバーには選ばれていた。ところが、19年夏の国際強化試合「三菱電機 WORLD CHALLENGE CUP」(MWCC)でついにメンバーから外れたのだ。

 大会期間中、補欠の一人として日本代表の試合を会場で見ることしかできなかった。だからこそ悔しさと代表復帰への思いを強くした緋田は、MWCC連覇という目標を達成することができなかった日本の結果に、心の中でこうつぶやいていた。

「やっぱり日本には俺がいなくちゃだめなんだ。俺のプレーでチームを勝たせてみせる」

 もちろん仲間たちの敗戦を喜んでいたわけでも、自分に驕りがあったわけでもない。そう思うことで、自分で自分を鼓舞しようと必死にもがいていたのだ。

 緋田はより厳しいトレーニングを課し、レベルアップを図った。その成果は代表候補合宿で表れ、高く評価された。そしてMWCCの約3カ月後に開催された東京パラリンピック前最後の公式戦AOCで代表に復帰した。

 そのAOCでは序盤はベンチを温めることが多かったものの、たとえ数分の出場でも全力でプレーした。それが指揮官の目に留まり、予選グループで最大のヤマ場となったオーストラリア戦、最も大事な4Qのスタメンに抜擢。攻守ともに最高のプレーでチームに貢献した。

 緋田には得点やアシスト、リバウンドなど、スタッツに表れるようなプレーはほとんどない。しかし、バイプレーヤーに徹する彼の存在は輝いていた。例えば、残り1分を切り、ついに日本が同点に追いついた場面。相手に囲まれながらのタフショットを入れ、さらにフリースローを決めたのは藤本怜央(宮城MAX)。その藤本にパスを出したのは古澤拓也(パラ神奈川)だった。

 実はその古澤がパスを出す前、相手ディフェンスにピックをかけて古澤の走るコースを死守したのが緋田だった。しかし、古澤にはアシスト、藤本には得点が付く一方で、緋田のプレーはスタッツには表れない。そんな決して目立つことのないバイプレーヤーの存在。だが、それこそが緋田たちローポインターの矜持であり、車いすバスケの魅力でもある。

 現在は、来年に延期となった東京パラリンピックのメンバーに入るためにトレーニングの日々を送っている。昨年のAOCで最も感じた課題は、フィジカルの強さ。技術的には通用したものの、パワーという点では海外選手との差を感じたからだ。

「例えばオーストラリアのヤニック(・ブレア)とは同じ持ち点なのに、見るからに腕の筋力に差がありますし、実際試合でもいざという時のワンプッシュの強さが違うなと感じました。パワーの面でも海外の強靭な選手と対等にプレーできるような自分になって、東京パラリンピックで金メダル獲得に貢献したいと思います」

「山あり谷あり」の競技人生。もちろん東京パラリンピックは、山の頂で迎えるつもりだ。

フィジカルを強化し、来年の東京パラリンピックではさらにレベルアップした姿で金メダルを狙いにいく[写真]=斎藤寿子

(Vol.12では、緋田選手がオススメの選手をご紹介します!)

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