2021.04.28

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.24】大島朋彦「レジェンドが語る、16歳から始まった車いすバスケ人生」

アトランタから北京まで4大会連続出場した元日本代表キャプテンの大島朋彦[写真]==JWBF / X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドン、16年リオ、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 日本代表の大黒柱として活躍してきた藤本怜央(宮城MAX)が「師匠の一人」として慕うのが大島朋彦(ワールドBBC)だ。パラリンピックは1996年アトランタから2008年北京まで4大会連続で出場。日本車いすバスケ界随一のハイポインターとして活躍したレジェンドともいうべき存在だ。

関東への武者修行がターニングポイントに

 現在、大島は地元のワールドBBCでプレーヤーとアシスタントコーチを兼任し、女子チームのBrilliant Catsではヘッドコーチを務めている。彼の指導を受けたいとチームに加入し、はるばる遠方から練習に参加する選手もいるほどだ。

 中学校時代にはバスケットボール部でプレーしていた大島には「あくまでもバスケットボールをしたい」という思いがある。

「もちろん車いすバスケでは車いすの特性を生かしたプレーが重要ですが、そのウエイトがあまりにも大きいなと。そうではなくてバスケットボールを理解したうえで、そこに車いすの特性を生かしたプレーを落とし込む、というバスケをしたい。スペースの使い方とタイミングの図り方が理解できれば、プレーの幅が広がり、さまざまな可能性が出てくるはずですから」

 そんな理想のバスケを追い求め、今では後進の育成にも注力している大島は、日本車いすバスケ界の歴史の一端を紡いできた選手の一人。日本代表時代はエースとして、また2002年から2006年までの5年間はキャプテンとしてチームをけん引した。だが、大島自身は「自分は最初からエリートではなかった」と語る。

 大島が車いすバスケを始めたのは、16歳の時に交通事故で入院している時に勧誘されたことがきっかけだった。「やることもないから」と軽い気持ちで練習に見学に行き、そこで初めて車いすに乗ってみた。当時はタイヤが八の字に装着された現在のような競技用車いすが出始めたばかりの頃。車いすを漕ぐのもターンも、今のように簡単に操作することができない代物だった。

「バスケ部出身でしたから“まぁ、簡単にできるだろう”と思っていたのですが、ぜんぜんでした(笑)。車いすで走ることも大変で、加えてシュートを打ってもリングにボールが全く届かなかった。ところが僕よりも障がいが重いはずの選手が、簡単にシュートを打つし、走ればどんどん僕を追い抜いていくわけです。“こんなはずじゃないのに”と悔しくてイライラしたことは今でも鮮明に覚えています」

 その後、3年目には初めて日本代表候補の合宿に呼ばれた。しかし国内トップ選手たちとのあまりの実力差に、大島は「ここは自分が来てはいけない場所だ」と感じたという。

 転機が訪れたのは、選考に落選してしばらく経ってからのことだった。当時付き合っていた、現在妻で女子の強化指定選手の大島美香(Brilliant Cats/ワールドBBC)が、1週間ほど関東に武者修行に行くという。そこで大島も便乗することに。これが、彼の気持ちにスイッチを入れることとなった。

「当時から妻は日本代表になるという気持ちが強く、その彼女に最初はついていった感じでした。でも東京、埼玉、神奈川と毎日さまざまなチームの練習で刺激を受けるなかで、自分の中にも日本代表を目指すという気持ちが膨らんでいったんです。地元では週に2回のチーム練習しかしていなかったのですが、関東のチームはもっとやっていると聞いて“今これだけ差があるのに、これじゃいつまで経っても追いつけない”と。帰ってからは、ほかのチームの練習にも参加して、週に5・6回は練習の場を設けるようになりました」

1994年から15年間、日本代表として世界の舞台で戦い続けた[写真]==JWBF / X-1

チーム競技の醍醐味を感じた世界選手権ラストマッチ

 代表デビューはその2年後、1994年世界選手権のアジアオセアニア予選。大島を含めてチームの半数が国際大会初出場というフレッシュな顔ぶれだった。経験値はなかったが、 “怖いもの知らず”の勢いがあったチームは過去に一度も勝ったことがなかった強豪オーストラリアからも勝利を挙げ、1位で予選を通過した。しかし、世界選手権ではまったく歯が立たなかった。わずか1勝にとどまり12チーム中11位という結果に。それでも大島にはある大きな手応えがあった。

「小さな日本人がインサイドで勝負するのは厳しいと言われていたのですが、僕自身は本当にそうなのかなと疑問に思っていました。それで決勝トーナメントに行けないとなった時点で“実際にやってみないとわからないのでは”と言ったんです。そしたらHCから“好きなようにやってみてもいい”と言われたので、次の試合でインサイドでのシュートを狙いに行きました。相手はビッグマン擁するドイツで試合に負けはしましたが、いい位置さえ取れればこれだけ高いチーム相手にもインサイドでシュートは打てるという手応えをつかみました」

 さらに世界選手権後には、当時アメリカを拠点としていた及川晋平現男子日本代表監督を頼って、同世代の選手とともにアメリカのクラブチームの練習にも参加。少しでも世界との差を縮めたいと精力的に動いた。

 15年間の代表活動で、パラリンピックと世界選手権にそれぞれ4度出場した大島。最も印象に残っているのは、2006年世界選手権での最後のイタリア戦だという。

「第3クォーター終了時点で16点差開いていたのですが、全員がまったく諦めていませんでした。第4クォーターにじわじわと追い上げて、最後に逆転して勝ったんです。7・8位決定戦でしたが、最高の勝ち方で終われたのは大きかった。2002年から自分がキャプテンをしていたのですが、それまでチームをうまく一つにまとめられず、力不足を感じていました。でも、その時は副キャプテンの京谷(和幸、現男子日本代表HC)や同い年の是友(京介、神戸STORKS)がサポートしてくれたりして、チームにまとまりがありました。“あぁ、全員が一つにまとまれば最後まで諦めずに戦ってこういう結果が出せるんだなぁ”と、チーム競技の良さを痛感しました」

 16歳での交通事故での影響で持病を抱えていた大島は、08年北京パラリンピックを最後に代表から退いた。現在はクラブチームでプレーするかたわら、後進の育成にも注力している。目標は所属するワールドBBCと、HCを務めるBrilliant Catsの全国制覇だ。

 大島を慕い、尊敬している選手も数多くいる。プレーヤーとして指導者として、今後も日本車いすバスケ界の発展に大島が担う役割は決して小さくはない。

女子チーム「Brilliant Cats」には大島の指導を求めて遠方から練習に通う選手もいる[写真]=JWBF/X-1


(Vol.25では、大島選手がオススメの選手をご紹介します!)

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