2021.06.02

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.26】大島美香「生涯スポーツの車いすバスケ、学ぶことに終わりはない」

日本代表として4度のパラリンピックと世界選手権に出場した大島美香[写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

 vol.25で登場した上玉利明子(九州ドルフィン)が「コートの中ではいつも冷静で憧れの存在」と語るのが、大島美香(Brilliant Cats/ワールドBBC)だ。パラリンピックには1996年アトランタから2008年北京まで4大会連続で出場。00年シドニー大会では銅メダルを獲得した。北京後、一度は第一線から退いたが、15年に代表復帰を果たし、現在も強化指定選手として代表活動を継続している。通常はフルタイムで仕事をしており、競技と仕事、そして子育ての“三足のわらじ”を履くママさんアスリートの大島にインタビューした。

小学生の時から憧れ続け10年越しに叶えた競技活動

 いつ、どんなことがきっかけだったのかは覚えていないというほど、大島が自然と子どもの頃から憧れていたのが車いすバスケットボール選手だった。

「今考えると、幼少時代にテレビで見た山口百恵さんが主演したドラマ『赤い衝撃』の影響かもしれません。山口さんが演じた主人公が車いすバスケをするシーンがあったんです」

 小学生の時のクラブ活動も、迷わずバスケを選択したという大島。6年生の時に書いた卒業文集には「車いすバスケの選手になる」と書いた。

 しかし、当時はインターネットがなかった時代。どこに行けば、車いすバスケができるのかはまったく情報がなかった。ようやく自宅から車で一時間ほどの所にクラブチームの練習拠点があることを知り、見学に訪れて初めて目にしたのは中学2年生の時だった。

「やっとできるようになってうれしかった」という大島。その後、練習に通うようになったが、実は選手登録をして本格的に始めるまでには時間を要した。

「中学3年生の時には留年の話が出るほど、長期の入院をしていましたし、高校進学後は大学受験の勉強を頑張りたいと思ったんです。将来、自分一人で生活できるような基盤をきちんとつくってからでないと、日本代表を目指すことはできない。そういう気持ちがありました」

 高校2年生の時には、初めて女子の全国大会が開催された。現在の皇后杯、「日本女子車いすバスケットボール選手権大会」の第1回大会が、1990年に神戸で行われたのだ。大島にも声がかかり、参加した。すると、大会に訪れていた当時の女子日本代表のヘッドコーチから代表候補合宿に誘われたという。しかし、大島の意思は固かった。すべては大学受験を終えてからと誘いを断った。

 大学進学後、大島は入学当初からプランを立てていた。3年間で卒業に必要な単位を大方取得し、残り1年はすべての時間を車いすバスケに費やすというものだった。しっかりと実行に移した大島は、入学後、車の免許を取ってから本格的に競技生活をスタート。まず最初に行ったのは、春休みに関東地方に武者修行に行くことだった。

「高校時代に一度は全国大会で声をかけていただいたものの、2年以上経っていましたから、自分からアピールしなければいけないと思ったんです。それで代表HCが指導していた関東のチームの練習に参加させていただこうと思ったんです」

 それは効果てきめんだった。すぐに日本代表候補の合宿に招致された大島は、94年、大学4年の時に世界選手権で代表デビュー。2年後にはアトランタ大会でパラリンピックデビューを果たした。

現在も国内トップの実力を持つ大島は相手の一手、二手先を読むプレーに長けている[写真]=斎藤寿子

「一生、勉強」という祖父の言葉を胸に

 普段は争いごとは好きではなく、穏やかな性格の大島だが、こと車いすバスケになると負け気の強さは人一倍。代表デビュー当時は海外の強豪国とは大きな差を感じながらも、それでも常に「勝ちたい、負けたくない」という気持ちを持ってやってきた。

 そんな大島にとって最も印象に残っている試合は、アテネパラリンピックでの順位決定戦での初戦だ。日本は準々決勝でアメリカに敗れ、5−8位決定戦に回ることになった。初戦の相手はオランダだった。

 大接戦となったその試合、第4クォーターの終盤、50−50と同点のところ残り23秒で大島がミドルシュートを決めて52−50で日本がリードした。ところが、残り8秒でオランダにシュートを決められて再び同点とされてしまう。

 日本のスローインから始まり、最後にボールが託されたのは大島だった。パスを受けた瞬間、大島にはボールがリングに吸い込まれていくイメージが出来上がっていた。そしてそのとおりに、ブザーと同時に大島が打ったシュートが決まり、日本は54−52で制した。

「あの試合はゾーンに入っていて、打てば入るというような感じでした。最後もパスをもらう前から、自分にボールが来たらシュートが入ると分かっているような感覚がありました。だから実際にパスをもらった時“入れなければ”とか“入らなかったらどうしよう”という気持ちは一切ありませんでした。自分の気持ちが乗り移っていたかのように、オレンジのリングが炎に見えていたことを今でも鮮明に覚えています」

 今年で車いすバスケ歴は30年。日本代表として4度のパラリンピック、4度の世界選手権で活躍した。そんな大島にとって車いすバスケは「生きていくうえでの道しるべ」でもある。一方で仕事も大事な時間となっており、車いすバスケと同じように「自分を成長させてくれる代えがたいもの」となっている。

「パラリンピックだけがゴールではない」と語る大島。今後は地元の東海北陸ブロックから多くの代表選手を輩出するためのサポートにも注力していきたいと考えている。とはいえ、まだまだ自分自身への向上心はとどまるところを知らない。

「一生、勉強だと思っています。それは昔、祖父に言われた言葉なんです。祖父自身、どんなに年を取っても本を読んで学ぶことを止めなかった人でした。私ももっと世界観を広げるために、いろいろと経験したいと思っていますし、車いすバスケももっと勉強したいと思っています」

 大島にとって、車いすバスケは“生涯スポーツ”。祖父の言葉を胸に、これからも学びの日々を送り続けるつもりだ。

体育館に行けなくてもビデオを見たり、健常のバスケをテレビで見たりと、いつでもどこでも学ぶ姿勢を崩さない[写真]=斎藤寿子


 (Vol.27では、大島選手がおススメの選手をご紹介します!)

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