2021.06.08

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.27】藤井新悟「楽な道を選択し続けていた自分を変えた車いすバスケ」

国内随一のポイントガードとして日の丸を背負い、世界と渡り合ってきた藤井新悟[写真]=JWBF/X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 2004年アテネから16年リオまで4大会連続でパラリンピックに出場し、日本の司令塔として活躍した藤井新悟(宮城MAX)。08年北京、12年ロンドンでは代表キャプテンも務めるなど、精神的支柱でもあった。06年に藤井を初めてキャプテンに指名したのが、Vol.26で登場した奥原明男(長野WBC)だ。「ガードとしてゲームコントロールできる藤井はハイポインターのこともローポインターのことも考えられる選手だと思った」からだった。現在もベテランから若手まで幅広い世代から信頼され、一目置かれている存在の藤井にインタビューした。

部活のような懐かしさを感じた宮城MAX

 藤井と一度でもプレーをした選手たちは皆、一様に彼のバスケセンスの高さに舌を巻く。17年以降は第一戦から退いたが、今も彼を慕い、憧れを抱いている選手は少なくない。取材をしていると若手から名前がしばしば挙がる人物の一人だ。

 藤井はケガをする前、中学校・高校時代はバスケ部に所属。小学生の時に「体育で楽しかったから」という理由で始めたがきっかけだったが、中学の入部当初は基礎体力を養うための走らされてばかりの練習は「わけが分からなかった(笑)」と語る。それでも3年時に学校初の快挙を成し遂げたことで、「やってきたことは間違いではなかった」と感じたという。

「当時、秋田県のバスケレベルは高くて、なかでも地元の県南地区は最も高かったんです。そのなかで僕の中学では初めて郡大会で優勝し、地区大会では3位に入りました。それは小学校にミニバスチームがない中学としては初めてのこと。“あぁ、きつい練習をしてきて良かったぁ”と思いました」

 高校では入学してすぐにレギュラーに抜擢された。本人は「弱小だったから」と謙遜するが、それでも10人ほどいた同級生の中で1年からレギュラーとなったのはただ一人だった。2年時には県ベスト16という成績を挙げたが、藤井にとっては高校時代は悔しい思いしかなかったという。

「中学でバスケ部だった同級生は、ほとんどが高校は強豪校に進学したんです。でも、僕は通学に時間がかかるのが面倒で、単純に自宅から一番近い高校に進学しました。1年の時は強豪校に行った選手はみんなベンチに入れなかったなか、自分だけがレギュラーだったことに優越感がありました。でも、最後の大会を終えた時には悔しさしかなかった。2年になるとみんなユニフォームをもらい始めて、僕はというと県ベスト16が精一杯。どんどん高いステージに上がっていく同級生たちを見ていて、自分の選択は間違っていたんじゃないかと。たとえ試合に出られなかったとしても、自分も挑戦していればもっと成長できたかもしれないと思ったんです」

 卒業後はバスケのチームがある地元の企業に就職した。どんな形でも、バスケだけは続けたいと思っていたからだ。そんななか、社会人1年目の2月にスキーで事故に遭い、脊髄を損傷するという大ケガを負った。入院生活は9カ月におよび、車いすでの生活が始まった。

 車いすバスケと出会ったのは、リハビリのために秋田県の病院から宮城県仙台市の病院に転院した時のことだった。現在所属する宮城MAXの選手が、バスケットボールを使ってリハビリをしていた藤井を見て、「バスケをやっていたんじゃない?だったら車いすバスケをやらない?」と声をかけてきたのがきっかけだった。ランニングバスケができなくなってから何もすることがなかった藤井にとって、それは「またバスケがやれる」という希望の光だったという。

「楽しみにしながら初めて宮城MAXの練習を見学に行ったのですが、想像していたものとはまったく違っていて驚きました。速いし、激しく転倒するしで“なんだ、これは。障がい者じゃないじゃん”って。しかもヘッドコーチだった岩佐(義明)さん(現女子日本代表HC)の厳しい声が飛んでいて、まるで部活のような懐かしい雰囲気がありました」

ケガをして何も楽しみがなくなった藤井にとって、車いすバスケとの出会いが希望の光となった[写真]=JWBF/X-1

忘れられない、表彰台の一番上で聞いた君が代

 その後リハビリ病院を退院し、社会復帰のために仙台の職業能力開発校に入学。同時に宮城MAXに加入し、車いすバスケ人生をスタートさせた。しかし、始めて1〜2カ月経つころには練習に行かなくなっていた。その理由を藤井はこう語る。

「自分はバスケをやってきたというプライドがあって、簡単にやれるだろうと思っていたんです。ところが、やり始めてわかったのは自分はほかの選手よりも障がいが重いこと。当時は最も下のクラス1.0でしたから(現在は1.5)。20歳の自分がおじさんたちにまったく勝てないし、シュートを打ってもボールがぜんぜん飛ばない。本来身長は178センチあったのに、車いすでは僕よりも身長が低いはずのハイポインターに上からボールを取られたり。自分の思い描いていたことがまったくできなかった。それで“こんなのバスケじゃない”と言い訳をして逃げることで楽になろうとしていたんだと思います」

 そんな藤井の気持ちを変えたのは、初めて参加した日本選手権(18年より天皇杯を下賜)だった。全国レベルの高さを目の当たりにした藤井は、ただただ驚き、感動した。そしてそれまでの自分自身を見つめ直した。

「小学生の時は野球をしていたのですが、一つ下の学年に同じサードのポジションでうまい子がいて、最後まで背番号は控えの10番しかもらえませんでした。そこで“中学ではレギュラーを取ってやる”というふうにはならなかった。もちろん本当にバスケが好きでやりたいとは思っていましたが、野球でまたポジション争いすることから逃げたいという気持ちもありました。高校進学の時も、強豪校に行かずに楽なほうの選択をして、そして車いすバスケでも逃げようとしていた。“あぁ、自分は何も成長していない。これじゃ、いつまでたってもダメなままだ”と思ったんです」

 その後、藤井は本気で練習に取り組むようになった。すると岩佐HCが「センスのかたまり」と絶賛する能力を開花するのに、そう時間は要しなかった。2年後、22歳の時には初めて日本代表候補の合宿に招集され、02年、24歳の時の世界選手権で代表デビュー。17年まで日本代表として活躍し続けた。

 16年間におよぶ日本代表活動の中で、最も強く印象に残っているのは、藤井がキャプテンを務めていた10年のフェスピック競技大会(現アジアパラ競技大会)だ。当時はアジアで最強を誇っていた日本だったが、予選リーグで中国にまさかの敗戦。だが、逆にチームは引き締まり、中国との再戦となった準決勝、そして最大のライバル韓国との決勝を制し、日本は金メダルに輝いた。その時の表彰式は、忘れられないという。

「車いすバスケを始めて、自分自身にとって初めての優勝でした。パラリンピックでも世界選手権でもなく、アジアの大会ではありましたが、それでも優勝は優勝。表彰台の一番高いところで聞く君が代は感慨深いものがありました」

 17年に代表活動に終止符を打った藤井だが、現在も日本車いすバスケ界にとって重要な存在であることに変わりはない。18年には女子日本代表AC、19年からは男子U23日本代表のACを務めている。さらに宮城MAXではプレーイングマネジャー、東北で唯一の女子チームSCRATCHのHCも務めるなど、指導者として引く手数多だ。

「指導者としての能力も覚悟もまだまだ」と語る藤井だが、自身も特に若手の育成にやりがいを感じているという。

「現在のアンダー世代は子どもの時に障がいを負っている選手が多いので、部活動を経験していないことも少なくないんです。だからこそ、U23ではプレー面だけでなく、協調性や仲間への思いやりなど、社会人として必要なことについても伝えていきたいなと。プレーヤーとしても人としても成長できる場になるよう、自分もしっかりと役割を果たしていきたいと思います」

 来年には千葉市で男子U23世界選手権が控えている。京谷和幸HC(20年より男子日本代表HCを兼任)をサポートし、将来の日本を背負う若手が飛躍する舞台にしたいと考えている。そして大会を終えた時、自分自身に何か気持ちの変化があるかもしれない、という期待もある。

 現在、43歳。日本車いすバスケ界に必要不可欠な存在の一人である藤井に、今後も目が離せない。

「選手として未練はない。十分にやり切った」と語る藤井。今は若手育成にやりがいを感じている[写真]=JWBF/X-1


(Vol.28 では、藤井選手がオススメの選手をご紹介します!)

車いすバスケリレーインタビューのバックナンバー

BASKETBALLKING VIDEO