2021.06.24

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.28】増渕倫巳「代表活動を支えてくれた仲間の存在」

2012年ロンドン・パラリンピックに出場し、最後の試合ではチーム最多の14得点を挙げた増渕倫巳[写真]=JWBF / X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.27で登場した藤井新悟(宮城MAX)がキャプテンを務めた2012年ロンドン・パラリンピックに初出場したのが、増渕倫巳(栃木レイカーズ)だ。ともにバスケットボール部出身ということもあり、2人は口をそろえて「一緒にプレーしていて楽しかった」と語る。また、地方出身で代表デビューが遅く、はじめての代表合宿では誰も知り合いがいなかった増渕を、いつも気にかけてくれていたのも藤井だったという。そして増渕には、地元のチームにも支えてくれた仲間の存在があった。

魅かれた勝敗へのこだわり

 もともとスポーツが好きだった増渕は、いずれも兄の影響で、小学生の時にはサッカーを始め、中学生では野球部に所属した、しかし、中学時代に連載が始まった『SLAM DUNK』に憧れ、バスケットボールに興味を持った。3年時には、野球部からバスケット部への転籍を希望したが、担任でもあったバスケット部の顧問に「今から入っても試合には出られないし、せっかく野球部に入ったんだから」と言われ、野球を続けることに。それでも野球部を引退した後は自分で教本を購入し、見よう見まねで練習を始めた。高校では絶対にバスケット部に入ろうと考えていたからだった。

 高校は「弱小チームだった」と語るが、それでも3年間バスケットに熱中した。十分にやり切ったと感じていた増渕は、高校卒業後はバスケットを続けてはいなかった。そんな彼が“車いすバスケ”に出会ったのは、26歳の時。その年に交通事故に遭い、車いす生活になったことがきっかけだった。入院中、車いすをつくるために病院に来たメーカーの人自身が車いすバスケ選手だったのだ。だが、はじめのうちはあまり興味がわかなかったという。

「初めて練習を見に行った時、すごいなとは思ったんです。ただ、それでも“あくまでもリハビリの一環としての障がい者スポーツでしょ”という気持ちがありました。僕は部活のように本気で練習をして勝負に挑むというようなものでなければ、やりたくないと思っていました」

 そんな彼の気持ちを変えたのは、外泊許可を取って見に行ったクラブチーム同士の練習試合だった。

「ひと目見て、遊びではないということが伝わってきました。どちらも真剣に勝ち負けにこだわっていた。自分がやりたいのは、これだと思ったんです」

 しかし、待ち受けていたのは予想以上に厳しいものだった。退院後、すぐに栃木レイカーズに加入。リハビリでは、10キロのダンベルを持ち上げたり、車いすで10キロ以上の砂袋を引いて毎日1時間ほど走っていたため、体力には自信があった。しかもバスケット部出身でもあった自分は、ある程度はできるだろうと考えていた。ところが、それは甘い考えだった。外周のランニングでは、自分よりも障がいが重い選手にまで軽々と追い越され、たった一人、周回遅れに。またバスケット部時代はドリブルを得意としていたが、車いすを漕ぎながらのボールハンドリングは見た目以上に難しかった。

思い通りにボールハンドリングができるようになり、楽しさを覚えたのは車いすバスケを始めてから2年後のことだった[写真]=JWBF / X-1

メントレの成果を発揮した“最初で最後の”パラリンピック

 それでも自主練習を重ね、少しずつ上達していった。すると、3年目には日本代表候補の合宿に呼ばれるように。合宿ではレベルの高い選手のプレーを学び、地元に戻ってからチーム練習はもちろん、個人練習も繰り返した。結果的には、2年後の2008年北京パラリンピックでは代表入りはかなわなかったのだが、増渕はまだまだ力不足の自分は当然、と納得していたという。とはいえ、このままではダメだとも思っていた。そこで、本腰を入れて取り組むことを決意した。

「26歳で車いすバスケを始め、代表の合宿に呼ばれたのは29歳。スタートが遅かった自分は、どうしたって経験値では劣ってしまう。だったら、すべてをバスケットに捧げるくらいの覚悟が必要だと思ったんです。使えるだけの時間はすべてバスケットに費やしました」

 年齢的にも最後のチャンスだと考えていたという2012年ロンドン・パラリンピック。そこに向けて、増渕はいいと思うことはすべて実行に移した。経験不足を少しでも補うため、練習から代表レベルでできる環境を求め、2010年には当時日本代表が全国でも最も多くいた宮城MAXに加入。平日は毎日、地元の栃木県内で練習をし、週末は宮城MAXの練習に通うというハードスケジュールをこなした。さらにパラリンピック1年前からはメンタルトレーナーと個人契約をし、大事なところでシュートを決めるなど、どんな局面でも平常心を保てるようにメンタルを強化した。

 その結果、増渕は見事に12人のメンバーに入った。ロンドン・パラリンピックではチームは決勝トーナメントに進出することはできず9位に。それでもすべての試合を終えた後、増渕の心に沸き上がってきたのは悔しさよりも「やっと終わった」と解放感にも似たすがすがしさだった。

「初戦のカナダ戦では、速攻の時に後ろから猛追してきたパトリック・アンダーソン(“車いすバスケ界のマイケル・ジョーダン”の異名を持つレジェンド)にプレッシャーをかけられながらも、落ち着いてランニングシュートを決めることができました。パトリックが後ろにいるとわかった時、“揺さぶられることなく自分のタイミングで打つ”と思って、その通りに打てたのは、1年間メンタルトレーニングをやってきたおかげだと思いました」

 さらに9、10位決定戦では、チーム最多の14得点。この日は「ボールをもらったらシュートが入る感覚があった」という。多くのスポーツ選手が経験する“ゾーン”の状態に近い感覚を味わいながら、増渕は最高のプレーで“最初で最後の”パラリンピックを締めた。

 こうして納得した代表活動を行うことができたのは、仲間たちの存在が欠かせなかったという。

「当時、栃木レイカーズは日本選手権(2018年より天皇杯を下賜)に出場できずにいたこともあって、全国に知り合いの選手はほとんどいませんでした。だから合宿に行っても、気心知れた人はいませんでした。そんな中、藤井選手はいつも“ナイシュー!”とか“いいね!”と本当によく声をかけてくれたんです。代表の中で、彼の存在は本当に大きかった。それと、栃木レイカーズの同期たちにも感謝しています。三村(龍)には合宿の帰りに、いつも電話で悩みを聞いてもらいましたし、対抗心を燃やせる二階堂(敬)、車いすのメンテナンスを手伝ってくれた永島(幸介)の存在も大きかった。何でも話せる仲間がいる、そんな帰る場所があったからこそ、代表の合宿でも頑張ることができたんです」

 栃木レイカーズとの同期たちとは、忘れられない思い出もある。2017年、日本選抜選手権で優勝し、チーム初の日本選手権出場を決めたことだ。

「代表での経験をチームにフィードバックして、みんなを日本選手権に連れていきたいと思っていました。でも、実際は僕の方がみんなに連れて行ってもらったように思います。悔しくて泣いたことは何度かありますが、うれしくて泣いたのは、あの時が初めてでした」

 現在は第一戦からは退き、仕事と家庭を中心とした生活を送る。そんな中、来年に地元で開催される全国障害者スポーツ大会は、競技人生の節目と考えている。

「一緒にプレーする中で、若い世代の選手に自分が持っているものをすべて伝えられればと思っています」

 15年間の車いすバスケ人生に、後悔は微塵もない。少しずつ若手にバトンを渡していくつもりだ。

地元開催となる来年の全スポでは、チームメイトとともに優勝を目指すつもりだ[写真]=JWBF / X-1

(Vol.29 では、増渕手がオススメの選手をご紹介します!)

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