2021.06.28

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.28】大津美穂「終わらない挑戦、東京パラ落選からの再スタート」

誰よりも早く次へのスタートを切った大津美穂[写真]=JWBF/X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

 文=斎藤寿子

 Vol.27で登場した小栗綾乃とは、お互いに中学時代から同じクラブチームBrilliant Catsでプレーしてきた大津美穂。それ以前に入院していた病院で同部屋だった2人は、その後別々のところで車いすバスケを知り、奇遇にも同じチームに加入して再会したのだという。その時、大津は中学2年生。もともとスポーツにはまったく関心がなかったという彼女が、車いすバスケを始め、日本代表を目指すようになったきっかけとは何だったのか。次のステージに向けて、新たなスタートを切ったばかりの大津にインタビューした。

“別次元の世界”で募った代表への思い

 先天性の二分脊椎症で体幹機能に障がいがある大津は、車いすで生活を送り、学校の体育は専ら見学だった。しかし、もともとスポーツに興味はなく、特別に「やりたい」という気持ちはなかったという。

 そんななか、一人で見学している大津のことが気になっていたのだろう。通っていた中学校に臨時で来ていた体育の先生が、車いすバスケットボールというスポーツがあることを教えてくれたのだ。さほど興味はわかなかったが、それでもせっかくだからと、母親と自宅から一番近くの体育館で練習をしているチームを見学に訪れた。それが、今所属している女子のクラブチーム「Brilliant Cats」だった。

「そこには今も代表活動を続けている大島美香さんや、ほかにもパラリンピックに出場した選手が何人もいて、すごくレベルが高かったんです。とにかく“車いすでこんなにも動けるんだ”と驚きました。それと、初めて競技用車いすにも乗せてもらったのですが、日常用とは違って簡単にクルクルと回れるし、スピードは出るし、単純におもしろいなって。それで興味が出てきて、やってみたいと思いました」

 とはいえ、中学、高校は学業を優先した。車いすバスケは趣味の範囲でしかなく、時々体育館でみんなと一緒に動き回れるのが楽しい、というだけのものに過ぎなかった。

 転機が訪れたのは、高校卒業後。就職してしばらく経った時のことだった。チームメートの古野祥子からの推薦で、大津は初めて日本代表候補の合宿に参加した。そこには、自分とは別次元の世界があった。

「どの選手もみんなキレッキレに動いていて、私は全然ついていけませんでした。自分とのレベルの差をまざまざと見せつけられた感じで、衝撃を受けました。その時は所属するBrilliant Catsでもっと試合に出たいなという気持ちはあったものの、代表なんてことは全く考えていなかったんです。でも合宿に参加して、初めて日本代表への憧れを強く抱くようになりました」

 ところが、当時市役所に勤めていた大津は仕事が忙しくなり、次の合宿を辞退しなければならなかった。そしてその後、しばらくは大津が合宿に呼ばれることはなかった。

 再び合宿に参加したのは、2年後のこと。2012年ロンドンパラリンピックが終わり、次の16年リオパラリンピックに向けてチームが始動したのを機に、20代前半だった大津も若手候補の一人に入っていた。

 13年には初めて12人のメンバー入りし、翌年の世界選手権の予選として行われたアジアオセアニアチャンピオンシップス(AOC)で代表デビューを果たした。さらに翌14年も世界選手権、アジアパラ競技大会と立て続けに国際大会に出場した。

 しかし、いずれも納得したプレーはできなかった。世界の強豪との差を肌で感じ、力不足を痛感させられるばかりだった。

「初めての国際大会だった13年は、本当に足りないところだらけでした。これではダメだと思い、まずは練習量を増やさなければと、男子チームの練習にも参加させてもらうようになりました。そのおかげで、14年の世界選手権やアジパラでは、特に注力してきたディフェンス面で少しだけ成長を感じることができました。ただ、それでは全く足りていなくて、評価していただいていたスピード以外にも強みを増やさなければ世界では戦ってはいけないことを痛感させられました」

 その後はウエイトトレーニングも本格的に始め、フィジカル強化も行った。おかげで主力としてプレーするBrilliant Catsでは40分間フル出場しても、最後までバテずにプレーすることができるようになるなど、成果は感じていた。しかし、代表では公式戦や海外遠征など12人のメンバーに入れないことも多く、なかなか結果を出すことができずにいた。

初めての国際大会、13年AOCでは代表初ゴールを決めた[写真]=JWBF/X-1

来春に向けて送るトレーニングの日々

 そこで、大津は一念発起して16年に市役所を退職し、翌17年にアスリート雇用で三和シヤッターに入社した。出社はするものの、競技を優先できる環境が整えられ、十分に練習時間も確保できるようになった。

 それにしても、もともとはスポーツに興味がなかった大津が、なぜここまで日本代表に強い思いを抱くようになったのか。その理由について「負けず嫌いな性格にある」と大津は語る。

 中学、高校で学業を優先したのも、その一つだった。運動ができないぶん、何かで勝ちたいと思っていた。ならば、と力を入れて取り組んだのが勉強だったのだ。その結果、中学時代には5教科の総合点で学年1位を取ったこともあった。

 決めたことは、必ずやり遂げてみせる。そんな負けん気の強さが、大津を代表という目標に向かわせているのだ。

 17年に転職してまで目指してきた東京パラリンピックへの出場は代表選考で落選し、叶わなかった。はじめはショックで車いすバスケをやる気力も失ったという。しかし、徐々に気持ちが整理され、2週間後大津は練習を再開した。

「自分なりに精一杯やってきたので、メンバーに入れなかったことは悔しいです。ただ、これが自分の実力なんだと思っています。東京がダメだと分かって最初は車いすバスケはもうやりたくない、と思いました。でも、日が経つにつれてやっぱりしたいなって。そして、ここで終われないと思ったんです。会社の人たちもすごく応援してくれて、大会には駆けつけてくれたりするのですが、そんな人たちのことを思ったら、やらなくちゃと思いました」

 現在は、来年3月に世界選手権の予選を兼ねて行われるAOCが目標だ。チーム練習のほか、最近は同じ東海ブロックの北風大雅(ワールドBBC)と合同練習も始めた。北風は24年パリパラリンピックでの日本代表入りを目指す若手の一人。高さもあるハイポインターの北風との練習は、海外勢を相手にした時の練習にもなり、モチベーションを保つうえでの励みにもなっている。

「パワーもスピードもある北風選手との1対1では、海外相手にどう止めるか、などとてもいいトレーニングになっています。また、一人だと諦めてしまったり、“これでいいかな”と思いがちですが、練習相手がいることによって高いレベルでモチベーションを保つことができます。お互いに動画を撮り合って、アドバイスをもらえたりと、一人ではできないことができて、本当に充実した練習ができています」

 これまで強みとしてきたスピードとディフェンス力に加え、現在はボールハンドリングの強化にも注力している。

 ひと足先に次へのスタートを切った大津。この夏、東京パラリンピックでの日本代表の活躍の裏で、しっかりとトレーニングに励むつもりだ。来年、春の訪れとともに「代表入り」の朗報が届くことを信じて––。

個人練習ではシュートの確率を記録するなどレベルアップにつなげるための工夫を凝らしている[写真]=JWBF/X-1


 (Vol.29では、大津選手がおススメの選手をご紹介します!)

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