2021.07.29

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.30】原田恵「人生を変えてくれた車いすバスケとの出会い」

女子クラブチーム「Wing」のキャプテンを務める原田恵[写真]=JWBF/X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.29で登場した添田智恵(ELFIN)と元チームメートの原田恵(Wing)。添田は原田について「厳しいことを言ったこともあったが、それでも頑張って今も続けていることがうれしい」と語る。実は原田にとって車いすバスケットボールに興味を持ったきっかけとなったのが、添田の存在だった。しかし、初めて試合を見学してから加入するまでには1年を要したという。今ではWingのキャプテンを務める原田。車いすバスケによって人生が一変したという彼女にインタビューした。

障がい者スポーツのイメージを覆した添田の姿

 子どもの頃から運動が好きだった原田は、小学生の時にミニバスケットボールを始め、中学校入学後はバスケ部に所属した。そんな彼女の体に異変が起きたのは、22歳の時だった。短大卒業後、地元の千葉県で幼稚園の教諭を務めていた原田は、親元を離れて自立しようと上京することを決意。2年間勤めた幼稚園を3月で辞め、就職先や引っ越し先を探そうとしていた。

 そんなある日の朝、首の後ろ側に激痛が走り、目が覚めた。少し前から痛みが出ていたものの、運動していたこともあって単なる筋肉痛だろうと思っていた。ところが、その日の痛みは尋常ではなかった。立ち上がろうとしたが、足にもまったく力が入らなかった。すぐに病院に運ばれ、診断の結果、脊髄硬膜外血腫であることが判明。その日から原田は車いす生活となった。

 入院して2〜3週間後にはリハビリセンターに転院し、そこで約4カ月にわたってリハビリが行われた。スポーツリハビリの一環として車いすバスケも体験したが、当時の原田には「やりたい」という気持ちは全くなかったという。

「担当医から車いすバスケのクラブチームがあることも聞いてはいたのですが、当時はまだ自分の障がいを受け入れることもできていませんでした。だから障がい者スポーツには、あまりいいイメージを持てていなかったんです」

 そんな原田の気持ちを一変させたのが、ある雑誌で特集されていた車いすバスケ選手の姿だった。

「それが添田さんだったんです。その雑誌に載っていた添田さんの写真は、どれもカッコ良かった。ほかの選手もみんなすごくいい笑顔をしていて、輝いて見えました。それまで自分が思っていた障がい者とか障がい者スポーツのイメージとはまったく違うものだったんです。中学までバスケをしていた自分も、またこんなふうに楽しそうにコートに立てるのかなと思ったら、すごく車いすバスケに興味がわいてきました」

 退院後、原田は地元で行われた試合を観に行った。そして「自分もこの人たちみたいになりたい」という気持ちが強くなった。当時添田が所属していたWingの選手たちからも「ぜひ来て」と歓迎され、チームから練習スケジュールも送られてきた。だが、原田はそれから1年間、一度も体育館を訪れることができなかった。

「もともと新しい人たちの輪に入るのが苦手というのもあって、なかなか勇気が持てませんでした。当時はリハビリセンターに通う以外は、ほとんど自宅にいて、外出することはありませんでした。“このままではいけない。変わらなければ”という気持ちがありながらも、前に進むことができずにいました」

 その後、意を決した原田は1年ぶりに体育館を訪れた。すると熱烈な歓迎を受けたという。原田にはそれがうれしかった。すぐにチームに加入し、車いすバスケ人生がスタートした。

雑誌で見た選手の姿に憧れを抱き、車いすバスケに関心を持つように[写真]=JWBF/X-1

Wing加入後に広がった世界

 今年で競技歴は、17年目になった。現在はWingのキャプテンを務める原田にとって最も印象に残っているのが、2010年の日本女子選手権大会(18年より皇后杯を下賜)での優勝だ。決勝では現在大会6連覇中の強豪カクテルを破り、03年以来7年ぶりに日本一となった。

 原田にとって人生で初めての優勝といううれしさもあったが、実はずっとお世話になっていた先輩とプレーする最後の試合になったことも忘れられない理由の一つとなっている。当時チームにはクラス1点台の選手は、1.0の原田と、1.5の相良真由子さんの2人しかいなかった。そのため、2人でプレータイムを分ける間柄であり、ふだんの練習から相良さんから教わることも多かった。

「日本選手権でもあまりチームに貢献ができず、結局、同じ1点台の相良さんに負担を大きくかけてしまいました。自分にとっては、優勝した喜び以上にもっとチームに貢献できるようにならなければ、と強く思った試合でもあったんです」

 相良さんは大会前に褥瘡で入院していたが、試合ではいつも通りのプレーで優勝の立役者の一人となっていた。ところが、それから1カ月後に行われたローカルの大会に、相良さんは来なかった。しかも連絡もなく、携帯に電話をしても出なかった相良さんをチームメートは一様に心配した。

 すると、その日の夜遅くに原田の元に一本の電話が鳴った。チームメイトからだった。聞けば、数日前に相良さんがウイルス性胃腸炎で亡くなっていたことを家族が知らせてくれたのだという。突然の訃報に信じられない思いだった。

 それからしばらくして、原田がキャプテンに就任することが決まった。それ以降、原田はキャプテンを務め続けてきた。自分が先頭に立ってというよりは、元日本代表でベテランの岡本直子や、プレーイングマネジャーを務める椎名香菜子らとともに、チームを作ってきた。そのWingは、チームワークが良く、はた目からも仲の良さがうかがえるほど明るい雰囲気に包まれたチームだ。

 コロナ禍の現在は、全体練習はできていない。特に千葉県在住の原田は、神奈川県厚木市を中心とする練習拠点から最も遠く、昨年3月から1年半もの間、全く体育館に行くことができずにいる。それでもチームメートからシェアされる練習の動画を見てイメージトレーニングをしたり、体力が落ちないように外を走ったりウエイトトレーニングを続けている。

 ふだん、原田は車で1時間半から2時間かけて、練習に行く。それは決して楽なことではないはずだ。それでも続けている理由は何なのか。実は、原田の人生を一変させたのが、車いすバスケを始めたことにあった。

「Wingに入るまでは、車いすの自分がどうやって仕事を見つければいいのかもわからず、ひきこもりと言われてもおかしくないくらい自宅にいる生活でした。でも、先輩から車いすバスケをするためには、競技用車いすやユニフォーム、遠征費などお金が必要になると。それで職業訓練校があることを教えていただき、そこに通って私も就職することができました。また練習や試合で外に出る機会が増えたことも大きかったんです。車いすバスケを始めたことによって、生活の行動範囲が広がり、人生が大きく変わりました」

 今では車いすバスケは生活の一部であり、離れることは考えたことがないという原田。コロナが収束したあかつきには、再びチームメートと一緒に汗を流し、チームに貢献するプレーの引き出しを増やしていきたいと考えている。

「Wing加入当初からお世話になっている岡本(直子)選手をはじめ、初心者の自分に基礎から根気よく教えて下さった先輩方、メンバー不足による休部からWing復活を叶えてくれた新加入のメンバー、ずっと自分の事を支えてくれた家族……いろいろな方に恩返しができるよう、これからもバスケを続けていきたいと思います」

 22歳の時に雑誌で見た添田のように、原田はこれからも笑顔でコートに立ち続ける。

車いすバスケを始めて行動範囲も人とのつながりも広がった[写真]=JWBF/X-1

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