2022.03.04

【短期連載・TOKYOの先へ】藤澤潔「プレー以外にも存在価値を見出せた“中心的役割”」

インタビュー第8回は、アウトサイドシュートのスペシャリスト藤澤潔[写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。日本列島を熱狂させた選手たちに東京大会での戦いの日々、そしてこれからについてインタビューする。第8回は、2016年リオに続いて2大会連続でパラリンピックに出場した、アウトサイドシュートのスペシャリスト藤澤潔。アメリカとの決勝ではビハインドを負った第3クォーターで連続得点、さらに味方のシュートをアシストするなどチームに勢いを与えた。ディフェンスでもプレス要員の一人として「ディフェンスで世界に勝つ」を体現した藤澤。東京パラリンピックを最後に現役引退を表明した彼に、東京までの道のりや、今後について訊いた。

取材・文=斎藤寿子

準備してきた自分に感謝できた決勝戦

――2度目の出場で史上初の銀メダルを手にした東京パラリンピックは、自身にとってどんな大会でしたか?
藤澤
 競技人生の集大成ということで臨んだ大会だったのですが、1年延期した期間にケガで離脱したこともあり、代表復帰も危うかった時期もありました。なので12人のメンバーに選ばれ、しかも決勝の舞台まで上がることができたことは、自分自身にはできすぎるくらいのストーリーで、幸運でした。

――印象に残っている試合はありますか?
藤澤
 準決勝のイギリス戦の後には、いろんな気持ちがわいてきました。メダリストになれたんだという喜びとともに、「あと1試合で自分は何ができるのだろうか」という強烈に焦りの気持ちも出てきました。大会期間中、ずっと活躍する若い選手の姿を目にしながら、自分が世界トップのレベルでやれるのはここまでだなというふうに思いながら、試合のたびに微調整しながら準備していたんです。そうしたなかで迎えた決勝のアメリカ戦は、第3クォーターにスタートから出て連続得点することができました。最後に一番いい感じでプレーすることができて、しっかりと準備をしてきた自分に感謝したいような気持ちになりました。

――チームにとって一番ターニングポイントとなった試合は?
藤澤
 初戦のコロンビア戦で鳥海(連志)がトリプルダブルを達成と、勢いづけてくれたことは大きかったように思います。チームや本人にとってもそうですし、メディアにも大きく取り上げられて、最初にパッと注目を浴びたというのはその後の盛り上がりにもつながったように思います。鳥海があれだけのスタッツを残すくらいの選手だということは、もう僕たちにはわかってはいましたが、それでもやっぱり本番でその実力を出せるというのは彼の大きな武器だなと改めて思いました。

競技人生の集大成として臨んだ東京大会で銀メダルを獲得[写真]=Getty Images

悔しさも焦りもあった17年MWCC

――前回、初出場だった16年リオ大会後、どんな気持ちで東京へと向かっていったのでしょうか。
藤澤
 リオまでは代表に選ばれることが当たり前みたいに思っていたところがありました。その中でリオでは海外チームに惨敗しましたし、自分自身においても悔しい気持ちが大きかったので、「次は主力として臨む大会にしたい」と思って東京を目指しました。

――リオの翌年、2017年の国際強化試合MWCC(三菱電機ワールドチャレンジカップ)では、12人のメンバーから外れました。
藤澤
 あのとき、自分の立ち位置に気づかされたというか、「自分が代表に選ばれるのは当たり前のことなんかじゃないんだ」ってことを痛感させられました。若い選手が出てきて、トランジションをより強く意識したバスケットに変わった新生ジャパンが、MWCCではオーストラリアやイギリスという強豪とも善戦していて、僕はそれをコートサイドから見ていることしかできなかった。悔しかったし、焦りもありました。そこからは常に危機感を持ってやるようになり、その年のAOC(アジアオセアニアチャンピオンシップス)で、12人のメンバーに復帰することができました。

――チーム内での激しい競争を繰り広げながら東京パラリンピックに向かっていったと思いますが、ご自身に手応えを感じたのはいつでしたか?
藤澤
 正直、大きな手応えを感じるというようなことはなくて、とにかく合宿も遠征も試合も、1回1回をクリアしていくしかなかったです。ただその中で、1年延期となったときに、京谷和幸ヘッドコーチが僕にチームの中での新たな役割を与えてくれたことは大きかったです。キャプテン、副キャプテンとの話し合いの中に僕も入れていただいて、どうやってモチベーションを上げていこうか、いい雰囲気を作っていこうか、というようなことをいろいろと話し合って実行に移しました。

チーム内の激しい競争を乗り越え、2度目のパラリンピックの舞台へ[写真]=斎藤寿子

リオでは築けなかった香西との同志関係

――ご自身の役割について、どんなふうに感じたのでしょうか?
藤澤
 それまでは極端に言えば、シュートを決めるということでしか自分自身の価値を見出せていなかったんです。でもチームの中心選手になるって、プレーだけではないんだなと。京谷HCが役割を与えてくれたことによって、さらにチームメートとの関わり方を考えるようになりましたし、そういう部分での武器っていうのもあるんだということがわかったんです。自分自身にしっかりと価値を感じたうえで東京パラリンピックに臨めたことは、僕にはとても大きかったですね。実は、選手村の部屋割りも、僕が決めたんです。

――藤澤さんご自身は、誰と同部屋だったのでしょうか?
藤澤
 僕は、(香西)宏昭。まぁ、彼には僕しかいないだろうということで(笑)。大会期間中はずっと宏昭と一緒にいましたね。それくらいお互いに心地よく過ごせたのだと思います。選手村からバス乗り場に行く時も、試合が終わってバスで選手村に帰る時も、選手村の食堂に行くにも、ずっと一緒でした。

――香西選手とは何か思い出作りはしたのでしょうか?
藤澤
 僕が東京で最後というのがあったので、決勝戦の朝は「一緒にバスケットをやるのも、今日で最後になるね」と、ちょっとしみじみしました。それからバス乗り場に行く前に、部屋で2人で写真を撮りました。宏昭とはリオの時も同部屋だったのですが、当時はチームの中でエースだった彼との立場の違いみたいなものがすごくあって、チームの輪の中心にいない自分との距離をすごく感じていたんです。宏昭も責任を一人で抱えたりしていたから、なかなか近い存在にはなれなかった。だからあまり深い話をすることもなかったのですが、でもリオの後、宏昭とあまりコミュニケーションを取れなかったことを後悔していたんです。その分もじゃないですけど、東京で宏昭とはすごくいい時間を過ごすことができて、本当に良かったなと思っています。

選手村では香西との貴重な時間を過ごした[写真]=Getty Images

セカンドキャリアのロールモデルに

――東京パラリンピックでの反響の大きさは、どのように感じていますか。
藤澤
 大会期間中も応援していただいていることには気づいていましたが、大会後に思っていた以上の盛り上がりだったんだなと感じることがよくありました。僕の故郷の町の人たちは全員が見てくれていたんじゃないかって思うくらい(笑)。母校などを訪問すると、想像以上に先生や後輩たちが僕という卒業生の存在を喜んでくださって、本当にうれしいなと。

――東京パラリンピックでの盛り上がりをどのようにつなげていくことが必要でしょうか。
藤澤
 これまで僕たちは「車いすバスケを知ってください、見てください」という自己紹介をしていたわけですが、東京パラリンピックでしっかりと知ってもらえたと思います。だからこれからは、逆に自分たちが何を与えていけるのか、というフェーズに入っていくのかなと。これまでと同じように自己紹介だけでは飽きられてしまいますので、競技や選手が社会に還元できる存在になっていかなければいけないと思います。

――東京パラリンピックを最後に、現役を引退されました。今後は、どのような活動をしていくのでしょうか。
藤澤
 車いすバスケットに限らず、パラアスリートのセカンドキャリアという部分で、自分が一つのロールモデルになれたらと思っています。競技を終えた後、どういうふうにして人生を歩んでいくのか。それを示すことができれば、これから競技としてパラスポーツを頑張ってみたいという若い選手や子どもたちへの安心材料となると思うんです。具体的にどういうことができるのか、今、会社ともいろいろと話し合っているところです。それこそ同じ職場にはパラアスリートが何人かいるので、選手たちにより良い環境づくりができればと思っています。自分自身もいくつも転職を繰り返して、競技とその後の人生との両面で模索しながら歩いてきましたので、そういう経験を生かしていけたらいいですね。

競技を終えた藤澤は、どんなセカンドキャリアを歩んでいくのだろうか[写真]=Getty Images

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