2022.03.21

【短期連載・TOKYOの先へ】豊島英「最高の締めくくりだった競技人生最後の舞台」

インタビューの最終回は、キャプテンとしてチームの精神的支柱となった豊島英 [写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。日本列島を熱狂させた選手たちに東京大会での戦いの日々、そしてこれからについてインタビューする。最終回は、キャプテンとしてチームの精神的支柱となった豊島英(WOWOW)。全8試合中7試合に先発出場し、世界トップクラスのチェアスキル、スピードと、的確な判断力でチームをけん引した。豊島を中心に考案したチームスローガン「一心」は、コロナ禍で代表活動がストップした際には、チームのよりどころとなった。東京大会後に現役引退を発表し、すでにセカンドステージを歩み始めた豊島にインタビューした。

取材・文=斎藤寿子

互いに信じあえたからこその銀メダル

――ロンドン、リオデジャネイロに続いて3大会目となった東京パラリンピックが、現役最後の舞台となりました。
豊島
 2013年に東京開催が決まったときから「東京の舞台で結果を出したい」という思いが頭の片隅にありました。その舞台に実際、自分がいれたことが、まずは本当にうれしかったです。そしてリオからの5年間で、僕たち日本代表はレベルアップし、成長し続けてきました。その5年間で積み上げてきたことを、最後にあの大舞台でしっかりと遂行し、銀メダルという、これまでになかった結果を出すことができました。本当に最高の大会になりました。

――一番、印象に残っている試合は?
豊島
 準決勝のイギリス戦と、決勝のアメリカ戦かな。イギリス戦は自分たちが目標としてきた“メダル獲得”が確定したことのうれしさがありました。内容も序盤は相手のシュート確率が良くリードされましたが、それでも我慢強くついていって逆転勝ちすることができ、40分間を通して僕たちのバスケットボールができた試合だったと思います。特にメンバー交代しながら、それぞれのラインナップが持ち味を発揮し、相手が嫌がるディフェンスをするという、日本代表の強みを存分に出せたと感じました。

現役最後となった大舞台で見事に銀メダルを獲得した[写真]=Getty Images

――決勝のアメリカ戦は、いかがでしたか?
豊島
 僕にとって競技人生最後の試合となったわけですが、アメリカには開幕前の練習試合で結構な大差でやられていたので、自分たちを信じられるかどうかということがとても大事でした。そんな中、あのときできる最高のパフォーマンスをして、拮抗したゲームができました。観ている人たちにも、楽しんでもらえるゲームができたのではないかと思います。

――決勝が終わったときは、どんな感情が湧いてきましたか?
豊島
 競技人生が終わったということよりも、もうみんなとバスケットボールができないことの寂しさの方が強くありました。決勝戦は負けましたが、本当にいいゲームでしたし、十分に楽しむことができました。12人のメンバーだけじゃなく、これまでともにトレーニングをした強化指定選手やスタッフも含めて、みんなでやり遂げられたことが本当にうれしかったし、満足の気持ちでいっぱいでした。

――銀メダルを獲得するうえでポイントとなった試合や選手は?
豊島
 これという試合もないですし、選手も誰ということはないのかなと。毎試合毎試合、日替わりで活躍する選手が出てきましたし、たとえプレータイムが短くても、それぞれがやるべきことをやり続けました。銀メダルは、その結果だったと思います。またどんなに状況が悪くなっても、京谷和幸ヘッドコーチが選手12人を信じて使い続けてくれました。そして、選手はその期待に応えようとしました。そういうチーム内の信頼関係が構築されていたことが結果に繋がったと思います。

――無観客の中での試合というのは、どんなふうに感じられましたか?
豊島
 確かに会場で観ていただけなかったのは残念なことではありました。ただ、大勢の人にすごく側で見守り、応援していただけていると感じていました。これが、自国開催の力であり、メリットなのかなと。そして、車いすバスケットボールの魅力を広く伝えることができた大会になったと思います。

豊島は競技人生最後の試合を、十分に楽しむことができたという[写真]=Getty Images

ケガの時期も仲間に頼りにされたことが大きな力に

――リオから東京にたどり着くまでの5年間で、ご自身にとって一番大きな出来事はなんですか?
豊島
 ケガでコートに立てない時期にも、選手、スタッフみんながキャプテンである僕が復帰するのを信じて待ってくれていたことが、本当にうれしかったです。みんなに支えてもらいながら、ケガの時期を乗り越えて、無事にメンバーに選ばれたときは、ホッとしました。

――チームメートのどんな言動が支えとなっていたのでしょうか?
豊島
 合宿に行っても、コートに立てなく、見学の期間が長いことがありました。そういうときでも、みんながキャプテンとして頼ってくれました。また、ストレートに「早く戻って来てよ」とか「また早く一緒にプレーしたい」というようなことを言ってくれるチームメートもいました。2019年の春から夏にかけては海外遠征のメンバーから外されたときも、「豊島がいるのといないのとでは安心感が違う」とも言ってくれました。そういう言葉に励まされ、頑張れました。

――チームの心のよりどころとなっていたスローガン「一心」は、どのようにして生まれたのでしょうか?
豊島
 東京パラリンピックに向かっていく中で、(藤澤)潔が「5人制のバスケットボールの“日本一丸”みたいなスローガンがあったらいいよね」と相談してきてくれて、それで選手の何人かで、どういうものがいいかを話し合いました。いくつか候補があった中で、最終的に「一心」を選んだのが僕でした。

――なぜ「一心」を選んだのでしょうか?
豊島
 みんなと「一心ってどういう意味があるのか」ということを話す中で、一番僕たちに合っている言葉だなと思ったんです。日本代表の強みであるトランジションにしろ、プレスディフェンスにしろ、全員が心を一つにしてやらなければ成し遂げられないことでしたので、そこに引っ張られたのかもしれません。しかし、一つのことに集中することやどんな状況でも一つの目標に向かってやり続けること、スタッフ・選手・それ以外の人との心は一つなど、いつの間にか何をおいても「一心」でチームがまとまるようになっていました。

心を一つにして快進撃を続けた日本代表[写真]=Getty Images

選手目線で考えていきたい環境づくり

――東京パラリンピック後、現役引退を表明しました。
豊島
 もともと、いつまでも現役にこだわるのではなく、いろいろなことにチャレンジしたいと考えていました。そんななか2013年に自国開催が決定し、(当初は)31歳の年で迎える東京パラリンピックで結果を出すことを最終的なゴールにできたらなと。実際、東京パラリンピックが近づくにつれて、そういう思いが徐々に強まってきていたので、東京パラリンピックを最後にすることを決めました。

――現役引退後は、日本車いすバスケットボール連盟(JWBF)の技術委員会委員に就任しました。
豊島
 昨年10月に打診があったのですが、最初は「え? なんで僕なんだろう」と驚きました。でも、勉強できることもたくさんあると思いましたし、選手としてお世話になってきたJWBFに何か貢献できるのであれば、と思って引き受けることを決めました。技術委員会の役割としては、日本代表の強化がメインとなるのですが、今後は全国に渡って選手の発掘や普及、育成についても、ほかの委員会と連携をしながら取り組んでいけたらと思っています。

――技術委員会の一人として、豊島さん自身がやっていきたいと思っていることはありますか?
豊島
 僕は現役を退いたばかりなので、選手目線でいろいろと見えてくることがあると思います。なので、現役選手が活動しやすい環境を作っていきたいと思っています。年齢も選手に近い分、選手がどんなことに苦しんでいるのかを理解できることも多いと思いますので、改善できる道を模索していけたらと思っています。

――今後のセカンドキャリアで、やってみたいことは?
豊島
 日本の車いすバスケットボール界がより発展していけるように、微力ではありますが、一人でも多くの人に車いすバスケットボールに関わっていきたいと思ってもらえるような活動をしていきたいと考えています。そのためにも、組織の仕組みを変えたり、大会を増やしたりすることも必要だと感じています。また車いすバスケットボールを通して、日本の未来を担っていく子どもたちと触れ合う時間も大切にしていきたいなと思っています。

有終の美を飾り、セカンドキャリアを歩み出した豊島[写真]=Getty Images

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