8月10日、日本女子バスケット偉大な選手が大きな決断を報告した――。
大﨑佑圭。旧姓の間宮でも馴染みのあるバスケットファンは多いだろう。
大﨑は、中学、高校とその世代のトップを走り、全国大会でその名をとどろかせたビッグセンター。ENEOSサンフラワーズ(入団時JOMO)では、在籍した9シーズンで皇后杯8回、Wリーグでは9回の優勝を達成し、個人でもMVPや得点王のタイトルなどを幾多となく獲得した。
また、10代の頃から日本代表にも名を連ね、2016年には念願のオリンピックに出場(リオデジャネイロ)している。
そして2017年に結婚。その後、出産と育児のために一時は第一線から離れたものの、今年、東京オリンピック出場を目指し現場に復帰した。2月には日本代表の一員として「FIBA 東京2020オリンピック予選大会」にも出場。東京オリンピック出場に向けて本格始動した。
だが、3月末に新型コロナウイルス感染症の影響で東京オリンピックの延期が決定。大﨑の進退もこれを機に大きく変わることとなった。
前編は、引退に至ったいきさつをインタビューでお伝えする。
「この決断は変わらないだろうし、後悔もないです」
――まず単刀直入に引退を決断した理由を教えてください。
大﨑 今年の2月、ベルギー(「FIBA 東京2020オリンピック予選大会」)で試合をして、スタートライン立ったぞという意識はありました。でも、帰国後、日本でも新型コロナウイルス感染拡大の影響は徐々に大きくなっていって。そこからどんどんと何も出来なくなっていってしまうとは予想ができず、帰国直後はトレーニングをしながら「(オリンピックが)1年延期になったらどうする?」「それは考えずにとりあえず今はトレーニング頑張ろうか」なんて言いながらやっていたんです。
だけど、本当に1年延期になってしまって…。正直、延期が発表された時点では、『1年後は厳しいな』という思いはありました。だから(取り巻く状況から)徐々に引退の方に向いていった感じです。
――延期が決まってから決断したというわけではないのですね。
大﨑 そこで決断するというよりは、まず行動ができなくなっていって3月末には外にも出られなくなり、ジムにも行けなくなりました。(日本代表のアシスタントコーチである)恩塚亨さんの大学(東京医療保健大学)の練習にも参加させてもらっていたのですが、それも止めて。どんどんとバスケから離れる生活になって、気持ちも体も段々と(引退へと)シフトチェンジしていきました。
――最終決断はいつでした?
大﨑 いつ言葉にするのか。取材などで悩んでると答えてはいたけれど、自分の中ではある程度決まっていて、最後はいつ発表するのかということだけでした。
タイミングとしては日本代表メンバーが発表される時だと決めて。でも、いざ(SNSを通して)伝えようとすると、「(投稿したら)これで本当に終わりなんだな」と思って…。決めてはいたし、それまでも宙ぶらりんの状態が嫌だと思っていたので、けじめを付ける気ではいたけれど、本当に終わるとなるとなると「寂しいな」という思いが、自分自身が思っていた以上にありましたね。
――1年後の開催予定というのはハードルが高かったのですね。
大﨑 今の状況だと1年後に開催されるかもはっきりは分からないですよね。その中で娘もいて家族を背負ってチャレンジすることは、それは『自分の望んだ形ではないな』という思いがありました。復帰も短期だからできるというのがあり、良くも悪くも半年間のチャレンジだと腹を括っていました。
――Wリーグのチームに所属していないことも影響しますか?
大﨑 いや、今回、数チームから声をかけてもらっていました。それこそ保育の面のフォローなど、良い条件を出してくれたチームもあります。でも私は『オリンピックに対しての思い』があったので、そういう気持ちのままWリーグを戦うチームに加入したら、(他選手と)何かしらのズレが生じるのではないかとも思ったんです。チームからは子ども優先での練習参加でもいいとも言っていただいたのですが、それも他選手に迷惑を掛けてしまうし、私の中でもそれは違うかなというのがあって、お断りさせてもらいました。オリンピックまで『一本集中』という気持ちが強かったですね。
――環境が整わなかったわけではなかったのですね。
大﨑 はい。最初の頃は、私がWリーグに参加した場合は子どもの預け先が難しいとメディアにも言っていました。でも、「それが整ったらどうする?」と自問自答した時、やっぱり違うかなと。自分の気持ちが持たないかもしれないなと思いました。
それにこの1年という期間は、私にはポジティブではないけど若手選手たちにはポジティブな1年。産後復帰のブランクがある私が日本代表に入れるのもどうなんだろうという気持ちもあって。色々考えての決断でした。
今回の決断に周りからは「後悔していないの?」と聞かれるのですが、寂しさや「せっかくやったのにな」という気持ちはあるけど、それでもこの決断は変わらないだろうし、後悔もないです。
――悔しいですが全ては新型コロナウイルス感染症の影響ですね…。
大﨑 こんなことならなければ今頃…という気持ちは正直あります。本当に短期だから滑り込めるという気持ちだったし、ベルギーでもそれを少し見せられたかなと思っていたので。あと半年ならベルギーでの課題を修正して滑り込めれるかなというのがあったんですけどね。『1年』は言葉にするより…。アスリートにとっての1年の長さを知っているので…。普通に生活してる分にはすぐなんですけどね。
――チームに所属しないで1年後を見据えてやっていくというのは現実的ではなかった?
大﨑 恩塚亨さんも「そういった感じでもいいのでは?」と言ってくれたのですが、それで頑張りますとエンジンがかかるわけでもなかったので、(日本代表ヘッドコーチの)トムさん(ホーバス)にも正直に話をしました。トムさんも「最後まで一緒にやろうよ、必要だよ」って言ってくれて。そう言ってもらったことは純粋にうれしかったですね。
ベルギーの最終戦のスタメン起用もディフェンスで評価されていたから。あの時もその期待に応えるためにディフェンスを頑張ろうと思っていました。
長いキャリアも「最後は楽しく終われた」
――引退を発表してから1か月以上経ちましたが、戻りたいと思うことはないですか?
大﨑 もうさすがにできないなって思います。ただのお騒がせセンターですね(笑)
――さっきも話に出たように、アスリートにとっての1年って厳しいのですね。
大﨑 私は諦めるという選択ができるけどラム(渡嘉敷来夢)やほかの現役の選手たちはそれでも進んでいかないといけない苦しさがあるから、大変だと思います。
――今、改めてバスケットを離れて感じることはありますか?
大﨑 自然とまたこの生活に戻ってきたという感じですね。それより、(日本代表での)合宿中のメリハリある生活に感動しました(笑)。時間が全部、自分軸。寝たい時に寝るし、お風呂もゆっくり入ってご飯もすでにできている状態。めっちゃ感動しましたよ(笑)。現役の時もそういったことに感謝の気持ちは持っていたけれど、その比ではないくらい、泣きそうになるくらい感動しました。
最後の日本代表活動はずっと楽しかった。今まで代表活動に対してそういうことを思ったことはなかったのですが、本当に毎日楽しい記憶しかないです。体力とか大変な面もあったけれど、遠征を含めて楽しかった。そういった思いをバスケット人生の最後に残せたことは良かったです。
――楽しく終れたのですね。
大﨑 どんなにキャリアがあっても、楽しく終わるというのは難しいと思うし、妊娠と出産でバスケットから離れた時も、正直、「もうバスケットはいいや、疲れちゃった。悔いもないし、やるだけやったし」と思った時もあったんですね。それがバスケットに対して楽しかったと思えて終わったことは、フェードアウトしなくて良かったなとすごく思います。
復帰がすごく短くなってしまったから、見る人からしたら「何がしたいんだ」と思うかもしれないけれど、それはしょうがないし、やってよかったなという思いが本当に強いです。
※後編はこれまでのバスケット人生を振り返ります。