【スペシャルインタビュー】「周りに恵まれた」大﨑佑圭のバスケット人生。10代から着実に階段を登って日本のトップ選手へ(後編)

長きに渡るバスケット人生を振り返った大﨑[写真]=バスケットボールキング編集部

 今夏、現役引退を自身のSNSで発表した大﨑佑圭。前編ではその理由を聞いたが、後編では長きに渡ったバスケット人生を振り返ってもらった。

「世界が違う」と感じた名門中学校でのスタート

――ここでは『ターニングポイント』という切り口でバスケット人生を振り返ってもらいたいと思います。まず最初のターニングポイントというと、東京成徳大学中学校に進学したことでしょうか。
大﨑 そうですね。成徳中には声を掛けてもらいました。背が大きかった私は、6年生の冬に母と「どこからもオファー来なかったね」と冗談を言いながらも、地元の中学校に進むつもりで制服の採寸をしていたんです。でもある時、成徳中の遠香周平先生(監督)と伊藤隆弘さん(コーチ)がミニバスの練習を見に来てくれて。

――どこかで大﨑さんの情報を知った?
大﨑 後に「私が情報提供したよ」と言う方が5、6人いたので、誰かは分からないのですが(笑)、そこで声を掛けてもらい、「行かせてください」となりました。

――その時、今の自分を思い描くことはできましたか?
大﨑 いや全く。中学でも何度も辞めようと思っていましたから。それに入学前の春休みに、練習に参加したのですが、その時に本気で後悔しましたもん。「しまった。これは世界違う」と(笑)

 私のいたミニバスは練習も週に数回、周りの技術も違うんです。ドリブルしてクルって回る先輩たちを見て「すご~い!」と見ていました。だから実際に入学してからは必死でしたね。そんな私に遠香先生は「何やってもいいからってとりあえず出てこい」という感じで。そうやって試合には出させてもらいました。

――1年生の全国大会(全中)では1年生ながら唯一ベンチ入りしました。
大﨑 まず全中(ぜんちゅう)が全国大会ということも知らなかったです。学校にはトロフィーが何個か置いてあったので、噂には聞いてたけどという感じでした。

――1年生では全国大会での出番も少なかったですが、2年生からはスターターに。ジュニアオールスターでも東京代表として主力として活躍しました。
大﨑 覚えているのは、2年生になったらスタートなんだろうなと漠然と思っていたことです。(センターポジションで2学年上の)マミさん(山田茉美/元デンソーアイリス)が抜けたことでそう思っていました。

――2年生の頃、フリースローでは左手の支えを置かず、右手のみを使っていました。当時はワンハンドシュートのフォーム固めの最中だったと思います。
大﨑 練習中にシュートフォームを直すということでみんなでやっていたので、試合中もずっとこれで打つようにと言われていました。3年生になって(左手を添える)普通のシュートになりました。

――そういった意味では基本を身に付け、一つ一つ上達していったように感じます。
大﨑 中学と高校の同級生からも「ユカほどお手本通りにレイアップシュートする選手もいないよね」と言われていました(笑)。中学の時は伊藤さんに基礎基本を教えてもらいましたね。

プラモデル部と兼務⁉ コート内外で充実の高校時代

――そして付属の東京成徳大学高校へ入学。当時の成徳高校は下坂須美子コーチの下、頭を使うバスケットでした。
大﨑 高校は楽しかったというイメージがあります。付属だったこともあり、全中が終わったらすぐに高校の練習に参加していたので、高校に入った時には練習メニューにも慣れていました。当時、私が他の学校に進むという噂もあったようですが…(笑)

――中3で練習参加した時には高3に吉田亜沙美(日本代表)さんがいたのでは。
大﨑 はい。ただ、私は普通にヨシさん(吉田)に話しかけちゃう人間だったので、可愛がってもらっていました。

 高校では自分にも余裕が出て来た。朝練があったから電車は始発、夜も帰宅は21時くらいだったのですが、学校生活も楽しくて。友だちにも先生にも恵まれ、だから部活も頑張れたというのは大きかったですね。

――高校ではバスケット部に加えプラモデル部にも入っていたとか⁉
大﨑 仲の良い先生からプラモデル部に入ってくれと言われたんです。もちろんバスケットがあるから部活動には参加できないけれど、私の仕事はプラモデル部員たちが作ったプラモデルを世に出すことだと言われて(笑)。だからインターハイ前の雑誌の撮影ではそれを持ち込んで。その時期になると「先生そろそろだよ!」と言っていましたね。

――高校生活も充実していたのですね。
大﨑 下坂先生はバスケット以外のことで厳しく言う先生ではなかったので、本当に過ごしやすかったです。バスケットでも、3年生になると先生からはほとんど怒られず、大人として扱われているなと感じました。だからこそ、集中してしっかりやらないといけないという気持ちが強かったです。

――中高とキャプテンでした。
大﨑 中学でキャプテンを任された時はキツくて。精神的にきたのはあそこが一番といっていいぐらい。キャプテンとしてどうしたらいいのかが全然分からず、一時学校に行けなくなりました。

 朝、制服も着て、出掛ける準備をして学校に向かおうとするのだけれど、玄関から先に出られない。玄関で大泣きしてしまう。先生は私を強くしてくれようとして劇を飛ばしていたのだと思うのですが、当時の私はそれを抱えきれなくて。「じゃあ、なんで私をキャプテンにしたの?他にもいるじゃん」と思っていました。

 それを乗り越えられたのは母の一言で、当時、悩みを親には言っていなかったのですが、母が感じ取って。「別にキャプテン辞めてもいいと思うよ」と。ただ、「辞めてもいいけど次のキャプテンを誰にするかは自分で考えなさいよ」と言われた時に、私の中で何かが吹っ切れたんです。そこから「私がやらなきゃいけない」という思いが強くなりました。今振り返ると、そこで一つ成長したというか、自分の土台ができたのかなと思います。心身ともに強くしてもらったと感じています。

――学生時代、思い出に残ってる試合は?
大﨑 高校最後のウインターカップですね。それと思い出したくないのは(逆転負けした)高校最後のインターハイです。

――最後のウインターカップはやり切った?
大﨑 はい。楽しかったし、(決勝の終盤は)点数と時間とを見て、(対戦相手の桜花学園高に)追いつかないなと思ったけれど、最後だしメソメソして終わるのも嫌だなと。もちろん、追いつかないなという態度を出すはダメだとは思うのですが、(勝敗よりも)試合の1分1分を大事にしたいと思って。プレーを通して感謝の気持ちが伝わればいいなと思ったことをすごく覚えています。最後はショータイム的な感じだったかもしれないですね。突然、私も笑い出したし(笑)

――今回、中高で一学年下の篠原恵、山本千夏(ともに富士通レッドウェーブ)さんも同時に引退しました。
大﨑 2人とも思ったより長くやったなと思っています。メグ(篠原)とツインタワーでやってきたし。後輩たちにはすごく支えてもらいました。

中高時代を一緒に戦った山本(写真左)、篠原(写真中央)とともにWリーグの功労賞を受賞[写真]=伊藤 大允

サンフラワーズでは2年目からトム・ホーバスにセンターのいろはを教わる

――さて、高校卒業後はENEOSサンフラワーズ(当時JOMO)に入団。2年目には現在の女子日本代表ヘッドコーチであるトム・ホーバス氏がコーチとして加入しました。ホーバス氏との出会いも転機では?
大﨑 確かにトムさんが来てから、センターについて細かく教えてもらいました。トムさんがいなかったらセンターとしてレベルは低かったと思うし、それこそオリンピックの舞台にも立てなかったのではないかと感じます。ラム(渡嘉敷来夢/現ENEOS)も私も育ててもらいましたね。

 当時は内海さん(知秀/現日立ハイテククーガーズのヘッドコーチ)がヘッドコーチだったこともあり、私たちはトムに個人的に見てもらっていたような感じ。だから優しかったし、楽しく教えてもらいました。

――大﨑さんは、気持ちの切り替えが早いというか、メンタル面の強さも感じます。
大﨑 結局、何か悩んだり落ち込んだりしても「バスケットで解決していくしかない」というところに辿り着くというか。明日シュートがポイって入っちゃえばその悩みはクリアになっちゃうんですよ。もともと下坂先生にも「オンとオフの切り替えが上手い」と言われていて。当時は何のことだろうと思ったけど、年齢を重ねると、「そういうことか」と思うようになりましたね。

――振り返れば、何か壁に当たるとそれを乗り越えていった選手だったと思います。
大﨑 確かに一段ずつしっかり階段を登ってきたと思います。だけど、努力タイプだとも私自身は思わないんですよね。だから気付いたらオリンピックに出れたというような感じでした。

サンフラワーズ一筋9年。優勝に幾度となく貢献した[写真]=Wリーグ

絶対に自力出場を果たしたかったリオデジャネイロ・オリンピック

――念願だったオリンピックに出場(2016年リオデジャネイロ)。この経験もバスケット人生の中で大きな出来事です。
大﨑 あの時は絶対に自力で行きたかったんです。その次の東京は開催地枠で出られる可能性が高いから。今回の東京オリンピック延期を考えると、リオに行けたのは良かったと思いますね。

――夢の舞台ではどのような思いで臨んだのですか?
大﨑 楽しもうと思っていました。初めてだし、オリンピックの空気をいっぱい吸っとこうという感じでした。

――オリンピックに関して言えばロンドン・オリンピック(2012年)に向けた世界最終予選(以下OQT)であと一歩のところで出場を逃しました。この時、大﨑さんは「『この経験を生かしたい』と言っているだけではダメ」と力強く発していました。あの時に強い意志を感じました。
大﨑 あのOQTは、初めて本気で悔しい思いをしたし、オリンピックを目指せる立場にいるんだと再確認した大会でした。悔しすぎて(OQT開催地のトルコから)帰国後は周りが心配するくらい数日間ボケーっとしていて。「私もバスケットに対してこんなに落ち込むことあるんだ」と思いました。日本代表に選ばれてから本当に自覚を持って意識が変わったのはここからだと思いますね。それは今でも覚えています。

――それと同時に日本代表のチームとしても変化していきました。
大﨑 期間限定のチームというのではなく、1年をかけてこのチームで戦っていくというのが明確になったと思います。だから個人としても、日本代表チームとしても切り替わったタイミングだったのかなと感じます。

――ロンドン・オリンピックのOQT以降、大﨑さん世代が中心に。オリンピックに私が連れてくという気持ちもあったのですか?
大﨑 ありました。マキちゃん(髙田真希/デンソーアイリス)とは日本代表でも試合に出れない時期を一緒に経験していたのですが、段々と「そろそろ、うちらだよね」と言っていました。(当時日本代表ヘッドコーチの)内海さんに「20点取るように」と具体的な数字を言われた時には、『やっと信頼されるまでになったんだ』と思ったし、だからこそ『私が!』という思いも増しました。

リオデジャネイロ・オリンピックを戦ったインサイド陣(左から王、髙田、大﨑、渡嘉敷)。本人もお気に入りの一枚[写真]=本人提供

「ファンの方に大事に育ててもらった」プレーヤー人生

――大﨑さんはWリーグのオールスターでファン投票1位を取りました。
大﨑 なんでだろう、しかも2年連続とか。マニアックな人もいるなって(笑)。でも本当にありがたいです。

――改めてファンの方の存在は?
大﨑 妊娠した時や出産後も「もう一度見たいです」と言葉をたくさんもらいました。その頃はどうするかまだ決まっていなかったので何とも言えなかったけれど、待っていてくれた人がいたかもしれないし、私自身もファンの方にプレーする姿を見せたかったので復帰できたことは良かったと思っています。

 今回、引退の投稿をした時も、思っていた以上にコメントが来て。本当にファンの方に大事にされてきたんだなと改めて思いました。ファンの方たちに大事に大事に育ててもらった。支えてくれたみなさんには感謝しかないですね。

――もちろん、間宮家、大﨑家にも支えられた?
大﨑 はい。中高は通いだったのですが、母には毎日お弁当を作ってもらって。母親離れできないのではないかと思うくらい大きな存在で、一番の理解者。本当にありがたかったです。

 大﨑家も、今回の五輪挑戦ではベルギー遠征(「FIBA 東京2020オリンピック予選大会」)などでお世話になりました。私は人とか環境にはずっと恵まれているなと思っています。

「16年間の歩み」
 大﨑を初めて見たのは中学1年生の全国大会。まだ試合には出られず、ベンチから一生懸命応援し、先輩にタオルやドリンクボトルを渡している姿が印象的だった。気が付けばあれから16年。彼女が日本のトップ選手へと駆け上っていく姿を追うことができたのは記者冥利に尽きる。

 中学時代から世代のトップを走ってきた大﨑。だが、決して最初からスーパースターだったわけではない。基礎基本に忠実なプレーを身に付けながら、中学、高校と大会ごとに成長の証を見せた。

 それはWリーグや日本代表選手となっても同様。その時の立場や与えられた役割をしっかりとこなし、結果を残した。

 彼女がキャリアを重ね、スムーズに階段を上がっているように見えたのは、挫折や壁にぶち当たった姿をあまり周りには見せてこなかったからだろう。明るい性格もあり、どんな辛い状況でも笑い飛ばしてしまう強さがあった。

 これまでの輝かしい成績もさることながら、的確なコメントなどでメディアからも愛され、そしてファンからも愛された。唯一無二ともいえる存在となったセンターは、日本の女子バスケット界に大きく貢献した。

 当面はクリニックなどでバスケットに携わるという。笑顔が似合う大﨑は、違った立場でまたコートに花を咲かせてくれるだろう。

PROFILE
大﨑佑圭(おおさき ゆか)
1990年4月3日生まれ/東京都出身/185センチ/センター
東京成徳大学中学校では2度の日本一に。高校では3年次の国民体育大会で優勝を果たした。JOMOサンフラワーズ(現ENEOS)に入団すると1年目から主軸を担い、Wリーグで9回、皇后杯では8回の優勝を達成。日本代表でもアジアカップ3連覇、リオデジャネイロ・オリンピック・ベスト8に貢献した。2017年に結婚、2018年に出産。2019年に東京オリンピック出用を目指して日本代表に復帰したが、新型コロナウイルス感染症の影響で東京オリンピックが延期となったことにより引退を決断した。旧姓は間宮。
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