【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.29】添田智恵「開かれた20年間の代表経験が生かされる場への扉」

 インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

 文=斎藤寿子

 Vol.28で登場した大津美穂(Brilliant Cats)が、代表活動が始まった当初から憧れていた選手の一人が、添田智恵(ELFIN/千葉ホークス)だ。大津は「添田さんは動きにキレがあってカットインからのシュートがうまく、ディフェンスも強い」と語る。その添田は2000年シドニーパラリンピックでは全試合フル出場し、銅メダル獲得に貢献。その後も04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場した。だが、シドニー後はポジション変更もあり、代表での存在を確立させることができずに苦しんできたという。そんなさまざまな立場を経験したことを生かし、今後は日本車いすバスケ界の発展に寄与したいと考えている。今年から日本車いすバスケットボール連盟(JWBF)の理事に就任し、新たな一歩を踏み出した添田にインタビューした。

親孝行の気持ちで始めた車いすバスケ

 添田が車いすバスケに出会ったのは、21歳。スノーボードでケガをして入院していた際に誘われたことがきっかけだった。だが最初は、ずっと断っていた。退院後、車いす生活となった自分がどう生きていくかということで頭がいっぱいで、スポーツをすることは全く考える余地がなかったからだ。それでも何度も誘ってくれる相手の執念に負け、一度練習を見学に行くことにしたが、断ることを前提としていた。

「とにかく一度見に行って、体験させてもらったうえで断れば、さすがに諦めてくれるかなと思ったんです」

 病院の敷地内にあった体育館を訪れると、女子チームが練習していた。正直、見ているだけでは魅かれるものは何もなかった。小学生の時には、学校の部活動で陸上、水泳、バスケをするなど、もともと運動が得意だった。そんな彼女にとって、地域のクラブチームレベルの車いすバスケは大したことがないように思えたのだ。

 ところが、実際に体験してみると、見るのとやるのとでは大違いだった。

「多少なりともスポーツはやっていたので、簡単にできるだろうと思っていました。でも、全くでした。“おもしろくなさそう”と思って見ていた選手にも簡単にスピードで負けるし、シュートも入れるどころから全然届かなかった。想像を超えるほど何もできない自分にショックでしたし、悔しいと思いました」

 その後、何度か練習に参加してみると、さらに悔しさが募った。負けず嫌いの添田は、このままでは終われないと、退院後、正式にチームに加入。職業訓練校に通いながら、平日は男子チーム、週末は女子チームと毎日のように練習に励んだ。

 最初は国内大会で優勝したい、日本代表になりたいなどという目標はなかった。ただただ、うまくなりたいと思っていた。そんな当時の思いを、添田はこう話す。

「ケガをして車いす生活になった自分のことで、親に引け目を感じてほしくないと思っていたんです。だから車いすバスケで存在意義を示して、親にとって自慢できるような子どもになりたいなと。自分ができる精一杯の親孝行のつもりで頑張っていました」

 しかし、周囲が添田を放ってはおかなかった。当時師事していた先輩の推薦により、1年もしないうちに日本代表候補の合宿に参加。翌年の1998年、世界選手権で日本代表デビューを果たすと、2年後のシドニーパラリンピックのメンバーにも選ばれた。とはいえ、まだ競技歴が浅かったこともあり、シドニー前まで添田はベンチを温めることが多かった。ところが、シドニーパラリンピックの初戦でいきなりスタメンに抜擢されたのだ。

「なぜ私がいきなりスタメンに起用されたかは分からないのですが、ただシドニー前の合宿でもスタメンで起用されたラインナップがよく使われていたんです。それで手応えを感じていたのかもしれません。いずれにしても、初戦の当日にいきなりスタメンと言われた時には驚きしかありませんでしたが、とにかく“やった! 試合に出られる!”とうれしかったですね。初めてのパラだったので、怖いもの知らずだったことが功を奏したのか、結局3位決定戦まで全試合フル出場しました」

 添田は主力として、1984年ストークマンデビル大会以来となる銅メダル獲得に貢献した。

代表デビューした98年世界選手権から海外と対戦することが楽しかったという添田[写真]=JWBF/X-1

経験を生かし日本車いすバスケ界の発展へ

 だが、シドニー後はフォワードからガードへのポジション変更を言い渡されたのを機に、葛藤する日々が続いた。

「自分でもゆくゆくはガードもと思っていましたが、まだその時は競技を始めて5年も経っていなかったので、まずはフォワードとして成長していきたいと思っていたんです。でも、自分のことをよく理解してくれていたアシスタントコーチからも言われたので、ガードを引き受けることにしました。ただ最後までポイントガードというポジションに違和感が拭えなかった。やっぱり自分が一番生きるのはシュートだと思っていましたが、そのシュートは全く求められず、アシストに徹することに納得がいかなかったんです。自分がどうすべきか、その答えを見つけられないままでしたね」

 そんな葛藤の中で出場した2回目のパラリンピックとなった04年アテネ大会では、思い出深い試合がある。準々決勝で敗れ、日本は順位決定戦に回った。その初戦となったオランダ戦の第4クォーター終盤、52-50と日本が2点リードの場面で添田は大きなミスをしてしまう。ベースラインから添田がコートにボールを入れると、そのパスが相手のディフェンスにカットされ、そのまま同点のシュートを決められてしまったのだ。

 試合時間は残り8秒。再び日本のスローインから始まり、今度はしっかりと自陣にボールを運んだ。ガードとしてボールコントロールしていた添田が、最後にボールを託したのはその日“ゾーン”に入っていたというほど絶好調だった大島美香(Brilliant Cats)だった。大島が自信を持って放ったボールがリングに吸い込まれると同時に、試合終了のブザーが鳴った。54-52で接戦を制した日本ベンチは歓声に包まれた。

「美香さんのブザービーターの一つ前に、私のミスで同点とされてしまい、“やってしまった”と思いました。ただ不思議と慌てることはなくて、残り8秒もちゃんと頭に入れながらプレーしていたんです。何も失うものがなかったからこそ、チャレンジャーとして試合に臨んでいたことが良かったのかなと思います」

 だが、その後もガードとしての存在意義を感じられず、葛藤し続けたという添田は、08年北京パラリンピックでは7試合中、コートに立ったのはわずか2試合に終わった。当時、添田はこう感じていたという。

「ずっと諦めずに頑張ることがいいことだと思っていましたし、結果はついてくると思っていました。でも、一番の苦行期間だった北京までの4年間で悟ったのは、諦めなければという気持ちがいつもプラスの結果を生み出すわけではないんだということでした」

 しかし、その考えは最近になって覆された。今年、添田はJWBFの理事に選出され、現在は新たなプロジェクトに携わっている。それは、これまでの経験を存分に生かせる場所だと感じている。

「すぐには結果が出なくても、後で違う形でつながるんだなと。やっぱり諦めずに努力することは重要だったのだとわかりました」

 その添田が理事として提案したいことは、山積みだ。

「強化という点では、選手の練習環境などはもちろんですが、何より指導者の発掘・育成が必要となると考えています。いい指導者やスタッフがいなければ、選手育成はできませんし、それでは世界に勝つことはできません。また、車いすバスケは健常者でも競技用車いすにさえ乗れば、誰でもプレーできる。その特性を生かして、たとえば家族でエントリーができたり、学校対抗戦をつくるなど、もっと一般の人たちが参画できる環境を整えたいと思っています。そうすると、車いすバスケに関心を抱いてくれる人の輪が広がっていくと思うんです。また、更衣室で着替えることだったりトイレに行くことだったり、車いすユーザーと日常を共有する機会があることで自然と相互理解が進むのではないかなと考えています」

 所属する女子チームのELFINで今年から選手兼任でアシスタントコーチを務めるかたわら、千葉ホークスでは紅一点で男子に交じってプレーしている。その理由をこう語る。

「男子選手にとっては迷惑かもしれません。それでも千葉ホークスでプレーするのは、チームに日本代表クラスの選手たちがいて、彼らと練習をしたり一緒にプレーすることで海外を相手にした時のチェアスキルの高さやフィジカルの強さを体感することができるからです。自分で体得したものを、女子にアレンジしていきたいなと。そうすることで少しでも女子のレベルを引き上げることができればと思っています」

 20年にわたる代表活動で酸いも甘いも経験してきた添田だからこその強い思いがある。今後はより一層、日本車いすバスケ界のより一層の普及と発展に向けて奔走するつもりだ。

車いすバスケの輪を広げ、さまざまな形で長く関わりが持てる環境づくりに注力したいと考えている[写真]=JWBF/X-1

 (Vol.30では、添田選手がおススメの選手をご紹介します!)

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