インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文・写真=斎藤寿子
若手の中でも特に注目されている選手の一人、今年20歳を迎える現役大学生の赤石竜我(埼玉ライオンズ)。Vol.2で登場した湯浅剛(NO EXUCUSE)も「年下だけど、彼の取り組む姿勢は尊敬に値する」と太鼓判を押す。18歳にして日本代表デビューを果たし、今や欠かせない選手の一人となった赤石。彼の原点とは――。
奇しくも東京パラ開催決定の年に始まった車いすバスケ人生
2000年生まれの赤石。東京パラリンピック開催が決定した13年は、中学1年生の時。ちょうど車いすバスケットボールを始めた頃だった。
小学生の時から、仲のいい友人たちとよくバスケをして遊んでいたという赤石。3つ上の兄も中学、高校とバスケ部に所属していたこともあり、バスケは身近な存在だった。
中学校に入り、バスケ部に入った友人たちから刺激を受け、赤石は自分も車いすバスケに挑戦しようと地元のクラブチームに加入。すると時を同じくして、東京パラリンピック開催決定のニュースが飛び込んできた。学校の友人や先生から「東京を目指して、頑張れよ!」と声をかけられたことが、パラリンピックを意識した最初だった。
とはいえ、当時は夢のまた夢。世界の舞台で戦う自分の姿を想像することは、全くできなかった。
「僕は5歳の時から車いすに乗って生活をしていたので、車いす操作には自信があったんです。ところが、クラブに入って初めてバスケ車に乗ったんですけど、全然思うように操作できなかった。しかもシュートはリングにさえも届かなくて……。パラリンピックどころではありませんでした」
ただ、赤石は根っからの負けず嫌い。だからこその努力家でもある。うまくできないことが多く、悔しいと思えたことがその後の原動力となったという。
ようやく東京パラリンピックを現実的な目標として考えられるようになったのは、それから5年後のこと。18年に初めて日本代表の強化指定選手に選出され、同年10月に行われたアジアパラ競技大会のメンバーに抜擢されたのだ。
「それが東京パラリンピックを目指すスタートラインになったと思います」と赤石。その1年前、それまで無名に近かった彼が、日本代表へとのし上がるきっかけとなった大会があったーー。
“声出し”から始まった日本代表への道
赤石にとって原点でもあり、最大の転機ともなったのが、17年1月に行われた男子U23世界選手権アジアオセアニア予選(AOZ)。初めて日の丸を胸に戦った世界の舞台だった。
しかし、最初はプレータイムはほとんど与えられなかった。それでもレギュラー陣にも劣らないほど、彼は目立つ存在だった。ベンチからチームメイトを鼓舞する声が、会場中に響き渡っていたからだ。
赤石は当時のことを、こう振り返る。
「あの時、僕は全く自分のプレーに自信がなかったんです。でも負けず嫌いなところがあって、自分を見てもらえるようなアピールポイントが欲しかった。それが声を出すことでした。誰にでもできることだけど、意外とみんながみんなできているわけではないですよね。だから声だけは誰にも負けないぞ!と思っていたんです」
実際「こういう選手がいるのといないのとではまったく違う」と指揮官からも高く評価された。さらに自分でも気づいていなかったという守備力も買われ、徐々にプレータイムを伸ばしていった。大会終盤では守備の要として活躍し、準優勝に大きく貢献した赤石。半年後の本戦でも守備でチームを支え、ベスト4進出。翌年からA代表にも選出されるようになった。
「4強入りした世界選手権のことを注目していただくことが多いのですが、僕にとってはその前の予選が何より大きかったです。実は自分の成長が感じられず、車いすバスケの楽しさもわからなくなっていた時期でもあって……。でも初めてU23代表に選ばれて、予選で守備を評価してもらい、初めてストロングポイントができた。あの時がなければ、今はないと思っています」
今や日本のトップクラスの選手として、メディアからの注目度も高い赤石だが、決して初心を忘れてはいない。チームメイトを鼓舞する彼の声は、今も会場中に響き渡っている。
(Vol.4では、赤石選手が注目している選手をご紹介します!)