インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
同じチームに所属していた頃の“2人で一緒に練習に励んだ日々”を今も大切に思い合っているのが、Vol.12で登場した川原凜(千葉ホークス)と、立川光樹(長崎サンライズ)だ。今や日本代表の主力の一人として活躍する川原が、“シュート力”という点で一目置いているのが立川だ。ローカル大会とはいえ、アウトサイドだけで1試合40得点以上を挙げたこともあるという。その立川が今、目指しているものとはーー。
スイッチを入れたデビュー戦での悔しさ
立川が初めて車いすバスケットボールを知ったのは、中学2年の時。現在所属しているチームが、学校で体験会を開いたことがきっかけだった。チームのマネジャーから誘われ、後日、練習会場の体育館に見学に訪れると、目の前には衝撃の光景が広がっていた。
「体験会では体の小さな選手が車いすに座ったままでシュートしているのを見て、『よくあんなにボールを飛ばせるなぁ』という驚きはありました。ただ、選手も本気でやっていたわけではなかったので、衝撃というほどではなかったんです。でも、練習を見学したら、スピードも激しさも想像していたのとはぜんぜん違って、本当に驚きました」
その場で初めて乗った“バスケ車”は、車輪が八の字につけられ、病院で乗ることもあった通常の車いすとはまったく異なりとても軽く、クルクルと簡単に回転できた。先天性の障がいがあり、当時は松葉杖で移動していた立川にとって、これほどまでに自分自身が軽快に自由に動くことができるのは初めての体験だった。
その後、チーム練習に参加するようになり、1年後には正式に選手登録をした。初めて出場した試合は、中学3年の時。毎年4月に開催するチーム主催の大会だった。そして、その時の悔しさは今でも鮮明に覚えている。
「中学生の僕に対して、相手が力を抜いてプレーしていることはすぐにわかりました。悔しかったけど、実際に何もできなくて……。それまでは楽しければいいと思って練習に加わっていたのですが、初めて“もっとうまくなりたい”という気持ちで自分から練習に取り組むようになりました」
その後、4歳年下の川原がチームに加入したことも大きかった。それまでチームで唯一の若手だった立川は、同じ10代の川原と2人で練習に励んだ。立川が大学生になって運転免許を取得すると、2人は立川の車で他チームの練習にも参加するなどして、レベルアップを図った。
自信となった世界のスター選手から贈られた言葉
もともと慎重派で自信を持つことや、遠い将来の大きな目標を立てることができない性格だという立川。だが、今は少しだけ自分に自信を持つことができ、競技人生で最大の目標もある。
そのきっかけとなったのは、日本代表の強化指定選手としての経験だ。16年リオパラリンピック後、次の東京パラリンピックに向けて始動した男子日本代表。その候補選手の一人に抜擢された立川は、国内合宿では全国から集結したトップ選手たちと厳しいトレーニングに励んだ。
何より自信となったのは、最大の強みとするシュート力だった。たとえば当時の合宿では、厳しいメニューの後に必ずフリースローが行われ、毎日その確率が掲示されていた。ときには70パーセントの基準に達しない選手には、“罰ラン”が課されたこともあったという。しかし立川は、2年間の合宿で一度も70パーセントを下回ることはなかった。それどころか、当初は日本代表で長く活躍してきた選手たちを凌ぎ、トップの数字を出すこともあった。
そして、もう一つ忘れられない出来事がある。初めて強化指定選手に選ばれた17年、その年最初の海外遠征メンバー入りを果たし、カナダを訪れた時のこと。そこには00年シドニー、04年アテネ、そして12年ロンドンと、カナダに3つの金メダルをもたらした世界的スーパースターのパトリック・アンダーソンがいた。アンダーソンはロンドン後に代表から離れ、16年リオには出場しなかったが、東京に向けて復帰しようと、合宿に参加していたのだ。
当時はまだ正式に代表復帰を果たしていなかったためか、練習試合では健常のバスケットボール選手がバスケ車に乗ってプレーするチームに入っていた。その健常チームと日本は遠征最終日に練習試合を行い、立川は80パーセント以上の高確率でシュートを決めてみせた。すると試合後に整列した際、アンダーソンが語りかけてきた。
「英語だったので何を言っているのか聞き取れなかったのですが(笑)、ほかの選手が『オマエのこと、クレイジーだって』って教えてくれたんです。本当にうれしかったです」
“車いすバスケ界のマイケル・ジョーダン”とも言われている名プレーヤーから贈られた言葉が、立川を奮い立たせたことは間違いない。
残念ながら19年以降は強化指定選手からは外れたが、それでも高みを目指すことをやめてはいない。現在の目標は“日本一のシューターになること”だ。
「以前は“九州一のシューターになりたい”と言っていました。“目指すなら日本一だろ?”と叱られたこともありましたが、僕はビジョンが見えない目標を掲げたくはないんです。だからずっと“九州一”と言い続けていました。でも、強化指定での経験によって“日本一”はそこまで遠い目標ではないなと。だから今は迷うことなく“日本一のシューター”が目標と言えます。そして、それを達成したうえで、もしまた強化指定に選ばれたら、今度はしっかりとパラリンピック出場を目指したいと思っています」
今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響によって、試合がすべて中止となった。それでもモチベーションは少しも落ちてはいない。「自分がどこまでやれるか挑戦してみたい」――その気持ちが練習に向かわせているからだ。
“頂”への挑戦は、まだ始まったばかり。立川光樹というプレーヤーの才能が開花する“その時”が待ち遠しい。
(Vol.14では、立川選手がオススメの選手をご紹介します!)