Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
Vol.10で登場した平井美喜(九州ドルフィン)が、「尊敬している先輩で、自分にとっては母親のような存在」と語るのが、塚本京子(ELFIN)だ。塚本も「同じ持ち点2点台ということもあって、美喜の成長ぶりをずっと見てきた」と振り返る。パラリンピックには女子日本代表が初めて出場した1984年ニューヨーク/ストークマンデビル大会(当時の大会名は「国際ストークマンデビル大会」)から6度出場し、まさに歴史をつくってきた。現在、JWBF(日本車いすバスケットボール連盟)に登録している選手としては、唯一2つのパラリンピックのメダルを持っているレジェンドにインタビューした。
もともとスポーツが好きだった塚本は、幼少時代にママさんバレーをしていた母親の練習についていったことがきっかけで、小学校に入ると大人にまじって練習に参加。中学校、高校ではバレーボール部に所属した。
高校卒業後もバレーボールを続けたいという希望が叶い、実業団のクラブを持つ企業に就職することが内定していた。特に強豪というわけではなかったというが、それでも大好きなバレーを続けられることが何より嬉しかったという。
ところが内定が決まった1カ月後、描いていた卒業後の青写真は突然かき消された。交通事故に遭い、脊髄を損傷。内定が取り消されてしまったのだ。
それでも塚本は諦めてはいなかった。「退院をしてケガが治ったら、またバレーボールをする」。そう信じていた。だが、入院はリハビリ期間も含めて1年半に及び、徐々に現実を理解し始めていったという。
「入院して2カ月後にはリハビリ専門の病院に転院しました。その初日に主治医の先生から『このまま車いす生活になる』ということははっきりと告知されたんです。でも実感がなくて『先生は何を言ってるんだろう?』と。でも、そのうちに徐々に『本当なんだな』と思うようになりました」
その時、塚本にとって何よりの支えとなっていたのが、車いすバスケットボールだった。1年以上のリハビリ期間中、さまざまな車いすスポーツを経験した中で、好きだったバレーボールと唯一同じチームスポーツで球技だった車いすバスケに、自然と魅かれていったのだ。
さらに病院の敷地内にある体育館に練習に来ていた地元のクラブチーム「パラ神奈川」の存在も大きかった。夜、そっと病室を抜け出し、パラ神奈川の練習を見ていたという塚本。選手たちの姿に「車いすでもこんなにかっこよくなれて、何でもできちゃうんだ」と、明るい未来を描けるようになっていった。
そのうちに「一緒にやろう」と声をかけてもらい、練習にも参加するようになると、ますます車いすバスケに夢中になっていった。退院後もパラ神奈川の練習に通い、さらに当時唯一の女子チームだった東京の「GRACE」の練習にも参加。仲間たちと地元の神奈川を拠点とする女子チーム「Wing」を結成したのは、その数年後のことだった。
塚本が車いすバスケを始めた当時、日本では代表チームは男子のみで、まだ女子日本代表の存在はなかった。
初めて全国から選抜された女子選手が一つのチームとして結成されたのは、1981年。その年、国連では障がい者の社会的な完全参加と平等を促すことを目的に「国際障害者年」を宣言。それを記念して男女のアメリカ代表チームが来日することになり、急遽全国から女子選手が招集されたのだ。塚本はその一人だった。
札幌、仙台、東京、横浜、大阪の5カ所で日米戦が行われ、塚本はガードとして全試合に出場した。結果はといえば、前年の1980年アーネム大会では銅メダルを獲得しているアメリカに対し、日本はまだ一度もパラリンピックに出場していないどころか、代表チームもなかった時代。アメリカの圧勝だったのでは……。
そんな予測に対して、塚本は嬉しそうに「それが、意外にも接戦だったんです」と答えた。当時の試合は20分ずつの前後半。世界的に競技レベルは今とは比較にならず、30点台の争いだったと塚本は言うが、それでも日本はアメリカと堂々と競り合った。勝つことはできなかったが、一度はドローに持ち込んだ試合もあったのだ。
その日米戦をきっかけに、日本では正式に女子日本代表として活動がスタートし、男子と同じように強化合宿が行われるようになった。塚本は「日米戦を見て『もしかしたら女子はパラリンピックでメダルが狙えるかもしれない』という期待が寄せられたのかもしれませんね」と想像する。実際、女子日本代表は3年後のパラリンピックで初出場にして銅メダルを獲得してみせた。
最高のかたちでスタートを切り、パラリンピックの歴史に名を刻んだ女子日本代表。その主軸の一人として活躍した塚本は、2004年アテネ大会まで6度パラリンピックに出場し、00年シドニー大会では若手の活躍もあり、2度目の銅メダルを獲得した。88年ソウル大会以降は決勝トーナメントにも進出できずに苦しい時期が続いていただけに、日本にとってやっとの思いで手にしたメダル。塚本自身「何がなんだかわからないうちに取ってしまった1度目の時とは、意味も重みもまったく違うものだった」と語る。
04年アテネ大会を最後に第一線から退いた塚本は、現在はクラブチームでプレーを続けながら、学校に講演に行ったり、まだ始めたばかりの子どもたちに基礎を教えたりするなど、普及活動も行っている。
そして、女子日本代表が結成された81年からちょうど40年が経つ今も、塚本たち初代メンバーの交流は続いているという。毎年2月に開催されている「国際親善試合女子車いすバスケットボール大阪大会」には応援するために会場に駆けつけたりもしているのだ。
「来年の東京パラリンピックには、ぜひみんなでメダルをかけて戦う後輩たちの応援に行きたいですね」と塚本。これからも日本女子の車いすバスケ界を見守り続けていきたいという気持ちは変わらない。