Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
Vol.26で登場した大島美香と同じBrilliant Catsに所属する小栗綾乃。大島の夫でチームのHCを務める元男子日本代表・大島朋彦の“大島夫妻”の下で子どもの頃からプレーしてきたことは「感謝しかない」と語る。車いすバスケットボール界では小栗のように四肢麻痺の選手は少なく、だからこそ「自分が伝えられることがあるのではないか」と話す小栗に話を聞いた。
車いすバスケとの出会いは、小学2年生の時。未就学児の頃から通っていたスイミングスクールと同じ施設内の体育館で車いすバスケの試合が行われた際、母親に誘われて見に行ったのが最初だった。
「今所属している女子チームのBrilliant Catsが、男子チーム相手にやっていて、すごいなと思いました。ただその時は、自分でやるというところまでは考えていませんでした」
それでも母親の勧めもあり、その後何度か車いすバスケの試合を見に行ったという。そして小学5年生の時、当時Brilliant Catsのマネジャーをしていた女性に誘われ、チームの練習を訪れた。すると、そこには小栗自身が初めて味わう楽しさがあった。
「それまでは親に車いすを押してもらって移動していたんです。親もやってあげるのが当たり前という感じでしたし、私も小学生ということもあって、親に甘えっぱなしでした。でも、車いすバスケの練習で初めて自分で動いてみて、すごくおもしろかったんです」
最初はたとえコート外でも、たくさんの人と関わり合うことができる雰囲気が楽しく、その場にいるだけでうれしかった。しかし、しばらくすると「自分がやっていて意味があるのかな」と考えるようになっていった。
「脚だけでなく両手にも麻痺がある自分は、なかなか思うように動くことができません。練習で初めてシュートを入れるまでには、4〜5年もかかったんです。バスケはシュートを入れることが醍醐味なのに、こんなにも時間がかかる自分にはやっぱり向いていないんじゃないかなって思うこともありました」
そんな小栗にとって、大きな転機となったのは、2011年の大阪カップだった。国際親善試合の大阪カップには、通常は日本をはじめ女子代表の4チームが集う。しかしその時は参加を予定していたアメリカが棄権することに。そこで急遽、日本は翌12年のロンドンパラリンピックを目指す正規の女子日本代表(Aチーム)のほかに、若手を中心とした「日本代表Bチーム」を派遣することとなった。小栗は、そのBチームに選出されたのだ。
「不安しかなかった」という小栗。そんな彼女にとって、大きな存在となったのがBチームのHCを務めた橘香織コーチ(現女子日本代表特任コーチ)だった。
「Bチームは急遽現地に集められたチームで、誰がどんなプレーをするのかもわからない状態でした。しかも私のように四肢麻痺の選手はあまりいないので、一緒にプレーするほかの選手の迷惑にならないかなとか、いろいろ考え込んでいました。そしたら橘さんが初めての公式練習の時に、“どういうことができて、どういうことが難しいの?”と聞いてくれたんです。
それで私も自分自身を知ってもらう貴重な機会だと思い、自分の障がいではどういうプレーができるのかをお伝えしました。たとえば“右手にも左手にも麻痺があるので、真ん中の胸にパスをもらえれば取れます”というようなことを話したのですが、橘さんは細かいところまできちんと聞いて理解してくれて、それをチームメイトにも伝えてくださいました。そんなふうに自分のことを理解しようとしてくれたことが何よりうれしくて、“あ、自分もバスケをやっていいんだな”と思えたんです」
Bチームとはいえ、“日本代表”としてプレーした3日間は、小栗にとって忘れられない思い出となった。
小栗が公式戦で初めてシュートを決めたのは、14年の女子車いすバスケットボール選手権大会(18年より皇后杯を下賜)、九州ドルフィンとの3位決定戦だった。ふと気づくと、自分の目の前にマークする相手はおらず、フリーの状態に。さらにゴール下まですっぽりとスペースが空いていた。そのチャンスを小栗は逃さなかった。トップの位置からスーっとインサイドに走って行くと、それを見た味方が小栗へパスをした。しっかりとボールを受け取った小栗は、そのままランニングシュート。ボールはネットの中に沈み、チームに2点が追加された。
実は、シュートをした後、普段なら入ったかどうかを確認するという小栗だが、その時は全く見ることなく、次のディフェンスに備えていたという。
「とても不思議なのですが、その時は打った瞬間になぜか入るような気がしていたんです。だから、すぐに“次の動きをしなくちゃ”って思いながら、動いていました」
何よりうれしかったのは、マネージャーが付けるスコアに、初めて得点を示す自分の背番号「6」が記されていたことだった。
競技歴は今年で19年目となった。ふだんは「やりたいなと思う時と、やっぱりしんどいなと思う時の繰り返し」だというが、それでもコロナ禍で昨年から思うように練習ができない今は、改めて車いすバスケの存在の大きさを感じている。
「いつのまにか車いすバスケがない生活が考えられないくらい、人生の一部になっています。やっぱり自分は車いすバスケがあったからこそ、ここまでこられたと思いますし、成長させてもらったと思っています」
そして、こう続ける。
「最近では、私と同じように麻痺の障がいがある選手も増えてきたなと感じています。実はコロナ禍でまだ練習はできていませんが、私と同じ四肢麻痺の子どもが練習生としてチームに入ってきてくれたんです。その子に“練習すれば、できるようになるからね”と伝えられたことがすごくうれしかったです。日本代表とかではないけれど、私が続けることにも意味がある、伝えられることがある。そう思えました」
両親やチームメイトをはじめ、たくさんの人に支えられてきたという小栗は、今後は“一緒にやってきて良かった”“応援してきて良かった”と思ってもらえるようなプレーヤーになることが目標だ。それが、恩返しだと思っている。