2021.05.19

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.25】上玉利明子「健常プレーヤーとしてスタートした競技人生」

元バレーボール選手の上玉利明子。車いすバスケとは大学時代に出会った[写真]=JWBF / X-1
フリーライター

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.24で登場した安尾笑(九州ドルフィン)が頼りにし、よく相談にも乗ってもらっているというのがチームの先輩である上玉利明子(九州ドルフィン)だ。現在は最小障がいで選手登録しているが、ケガをする前から健常プレーヤーとして車いすバスケットボールをしていたという。そんな上玉利に車いすバスケとの出会いや、プレーヤーとなった経緯について聞いた。

片道2時間も苦にはならなかった車いすバスケ

 上玉利はもともとバレーボール選手だった。小学3年から始め、中学、高校、大学ではバレーボール部に所属。大学卒業後も、社会人のクラブチームで続けていた。

 そんな上玉利が車いすバスケを知ったのは、大学時代。バレーボール部の顧問だった先生の研究室が障がい者スポーツを研究していたことがきっかけだった。

「障がい者スポーツの研究を進めている時に、先生から実際に自分自身が一緒に活動した方がいいのではというふうに勧められたんです。それで練習にお邪魔したのが、地元の車いすバスケのチームでした」

 それまで一度も障がい者スポーツを目にしたことがなかった上玉利は、選手たちのプレーや姿に驚くことばかりだった。

「最初は“どうやってするんだろう?”というところからスタートしたのですが、実際に練習を見学に行ったら、選手たちがハツラツとプレーしていたんです。しかも話をしたら本当に楽しい人たちばかりで、こちらまで楽しい気持ちになれました」

 その後は、バレーボール部としての活動の傍ら、週に1~2回は車いすバスケの練習にも参加するようになった。さらにバレーボール部を引退した後は、自ら志願して車いすバスケチームのマネジャーに。それほど、車いすバスケが好きになっていた。

 大学卒業後、小学校の教員となった上玉利は、最初の数年は離島の学校に赴任となり、車いすバスケの練習に参加できずにいた。しかしようやく採用試験に合格した最初の赴任先が車いすバスケのチームの練習拠点に近く、再びマネジャーをするようになった。

 ちょうどその時に知ったのが、車いすバスケには健常者のチームや試合もあり、自分自身もプレーヤーになれるということだった。もともとスポーツをすることが好きだった上玉利は「やってみたい」と思った。しかし、健常者のチームは鹿児島県にはなく、熊本県にまで行かなければならなかった。それでも「やらない」という選択肢はなかった。上玉利は車で片道2時間かけて、健常者チームの練習にも参加するようになった。

「当時はバレーも続けていて、車いすバスケは地元と健常者と2チームを掛け持ちしていたので、週6日で体育館に通うような毎日でした。大変でしたけど、それよりも楽しさのほうが勝っていました」

片道2時間も苦ではないほど車いすバスケに熱中した[写真]=JWBF / X-1

先輩から引き継いだ思いを後輩へ

 転機が訪れたのは、今から約10年前のこと。度重なる膝のケガでバレーボールはプレーすることが難しくなり、上玉利は車いすバスケ1本に絞ることにした。ちょうどその時だった。現在所属する九州ドルフィンという女子チームから誘いを受けたのだ。

「それまで男子チームの中でプレーはしていましたが、女子だけのチームでプレーするのは初めてでした。当然クラス4.5である自分が一番動かなければいけないし、得点など役割も多い。それなのにできないことが多かったんです。いかにそれまでの自分は男子選手に助けてもらいながらプレーしていたのかということに気づかされました。女子のチームでやるには、もっと本腰を入れて練習をしなければいけないなと」

 その後、九州ドルフィンの選手として正式に登録。現在はキャプテンを務めるまでの存在となった。これまで数々の試合でプレーしてきたが、最も印象に残っているのは数年前にあったローカル大会での一戦。現在、日本女子車いすバスケットボール選手権(18年より皇后杯を下賜)6連覇中のカクテルとの試合だ。

「結果的には圧倒的な差で負けはしたのですが、内容としては自分たちがやろうとしていたことが少しだけ発揮された試合でした。40分間オールコートのプレスディフェンスをしてくるカクテルに対して、ハーフコートにもボールを運べないこともしばしば。でも、その試合ではみんなで“こうしていこう”ということが明確にあって、それを実行できました。勝ち負け以上に、チームのみんなで作り上げていく楽しさが感じられた試合だったんです」

「そういう試合を一つでも多くしていきたい」と上玉利。しかし、コロナ禍前の最後の大会となった2020年1月の皇后杯では、チームが一つになり切ることができなかったと感じている。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、現在はチーム練習がままならない状況だが、事態が収束した後には再び九州ドルフィンらしいバスケを全員でつくり上げていくつもりだ。

 一方、日本車いすバスケットボール連盟(JWBF)では女子委員会の副委員長を務め、日本の女子車いすバスケ界の発展、普及拡大につながる活動にも注力している。

「これまで先輩たちが女子選手にももっと活躍の場をということで活動されてきた思いを引き継ぎたいと思っています」と上玉利。喫緊の課題は、結婚や出産、育児と人生の節目で車いすバスケから離れてしまうことも多いなか、女子選手が長く現役を続けられる環境をつくることと、女子選手の発掘だ。

「これまでは各チームがそれぞれサポートしてきたわけですが、今後は組織的なサポート体制を構築していけたらと思っています。現在、JWBFに登録している女子選手は約100人。少ない人数だからこそ、みんなで選手を育てていきたいですね」

 コロナ禍で中断しているが、19年からは女子選手のプレーする場を増やし、育成・強化を目的に新たに女子リーグがスタートしている。

「競技の面白さはもちろん、これまで多くの先輩たちに教えていただいたことを、私も次の世代につなげていきたいと思っています」

 これからも女子車いすバスケ界の普及・発展のために活動を続けていくつもりだ。

現在、九州ドルフィンのキャプテンを務める上玉利[写真]=JWBF / X-1


 (Vol.26では、上玉利選手がおススメの選手をご紹介します!)

車いすバスケリレーインタビューのバックナンバー