2021.07.07

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.29】田中恒一「最終目標は世界初のプロリーグ設立」

現在は千葉ホークスのHC、JWBF理事を務める田中恒一[写真]=JWBF / X-1
フリーライター

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.28で登場した増渕倫巳(栃木レイカーズ)が「ライバルであり本音で話せる仲間でもあった」と語るのが、田中恒一(千葉ホークス)だ。2人は日本代表として、2010年世界選手権に出場したメンバーでもある。田中は車いすバスケを始めた当初から目指してきたパラリンピックへの出場は叶わなかったが、今、大きな“野望”を持っている。現在、所属する千葉ホークスではプレーイングマネジャーとして活動し、日本車いすバスケットボール連盟の理事も務める田中。車いすバスケ人生を振り返るとともに、今後の目標についてインタビューした。

8年後にたどり着いたスタメンの座と代表への入口

 田中が車いすバスケの存在を初めて知ったのは、19歳のときだった。18歳の時に交通事故で脊髄を損傷する大けがで入院していた田中は、スポーツリハビリを受けた際に車いすバスケというスポーツがあることを知った。

「当時は自分の障がいを受け入れる、受け入れられないの狭間にいて、車いすに乗るということもまだ完全には受け入れられていませんでした。でも、もともと剣道をやっていて体を動かすことは好きだったので、何か車いすでできるスポーツをしたいとは思っていたんです。そんなときにリハビリで知ったのが、車いすバスケでした」

 最初は何もできなかった。車いすをこぎながら、うまくドリブルすることもできなければ、シュートもまったく届かない。それでも体を動かすことは気持ちよく、楽しみながらやっていくうちに、退院する頃には病院では敵なしの状態にまで上達していた。

 退院後も車いすバスケを続けたいと考えた田中は、担当医から紹介してもらった地元の千葉ホークスに加入した。ところが、待ち受けていたのは想像を絶する本気の競技の世界だった。

「実は、担当医の先生は最初千葉ホークスに入ることを渋っていたんです。強豪チームだから練習が厳しいよと。仕事との両立も大変だろうからと心配してくれていたのですが、僕、その時はなめていたんですよね。少しばかりうまくなっていたもんだから“言っても障がい者スポーツでしょ”と。それと何より車いすバスケが楽しくて、火がついている状態でしたから、もう千葉ホークスに絶対に入ろうと思っていました」

 退院後、すぐに意気揚々と千葉ホークスに加入した。すると、自分とのあまりのレベルの差にショックを受けた。外周を走っていても何周もの差をつけられ、自分よりもクラスが低く、障がいが重いはずの選手よりもプレーできなかったのだ。ただ、そこでやめようとは思わなかった。逆に闘争心に火がついた。

「当時のホークスには、日本代表の選手が何人もいたんです。それで僕も、絶対にこの人たちと同じように日の丸をつけて世界の舞台で戦いたい、と思いました」

 さらに、ちょうど同じタイミングで同世代の鈴木明将と安直樹が入ってきたことも大きかった。クラスは違ったものの、同じく日本代表を目指す仲間とともに切磋琢磨しながら、田中は毎日のように練習に励んだ。

 しかし、2、3年もすると、鈴木と安はプレータイムが増え、さらに日本代表候補の合宿に呼ばれていった。その一方で、田中には一向に声がかからなかった。そして、千葉ホークスでもなかなかレギュラーの座を掴むことができずにいた。代表経験もある萬崎勲、岩野博(現カクテルHC)、杉山浩(前千葉ホークスHC)、神保康広、京谷和幸(現男子日本代表HC)、及川晋平(現男子日本代表監督)といった先輩たちを追い越すことは容易なことではなかった。

 ようやく田中が初めてスタメンで試合に出場したのは、05年。加入して8年が経過していた。その年の日本選手権(18年より天皇杯を下賜)で千葉ホークスは優勝し、田中はオールスター5に輝いた。その活躍が高く評価されたのだろう。その年から日本代表候補の合宿に呼ばれるようになり、ついに代表活動がスタートした。

日本代表が多く在籍していた千葉ホークスに加入し、田中は「人生で初めて夢を持てた」と語る[写真]=JWBF / X-1

目標はチームの優勝とプロリーグ設立

 しかし、日の丸を背負うという目標には、なかなか到達することはできなかった。

「当時、クラス3.0は戦国時代。是友(京介)さん、三宅(克己)さん、神保さんの3人がしのぎを削り合っていて、この3人を超えることがなかなかできませんでした」

 田中は先輩3人にないものを探した。すると、一つだけあった。アウトサイドのシュート力だ。逆にそれは自分が得意としている分野だった。そこでミドルシュートを磨くことによって、活路を見出そうと考えた。それが功を奏し、田中は06年の世界選手権で初めて12人のメンバーに入った。

 しかし、年齢的にもピークだと考え、本気で狙っていた08年北京パラリンピックには選ばれなかった。ケガで離脱したことが大きく響いたのだ。

 それでも北京パラリンピック後も、日本代表候補の合宿に呼ばれ続け、田中は次のロンドンパラリンピックを目指そうと考えていた。そんななか、10年に出場した2度目の世界選手権では大きな手応えをつかんでいた。

「今の日本代表が強みとしているトランジションバスケを、ちょうど取り入れ始めたくらいの時期で、十分に世界に通用するなという手応えがありました。あとは全員が40分間、一瞬たりとも心折れることなく、自信を持ってやり続けさえすれば勝てると思いました」

 田中も自分自身のプレーに自信をつけていた。得意とするミドルシュートはもちろん、センターへのアシストに快感を覚えていた。

「日本のハイポインターがインサイドにアタックすると、相手のビッグマン2、3人に囲まれてしまうんです。それでも日本のセンターの手が出る瞬間があって、そのタイミングに山なりのボールをパスするんです。しかも僕はシュートする時と同じフォームでパスをするので、相手は一瞬シュートだと思って、ディフェンスをやめてリバウンドに備えようとする。そこでパスが通って、ハイポインターがゴール下をねじ込むと。さらにあわてて止めようとする相手からファウルをもらえばフリースローももらえた。こういうシュートが決まると、自分が得点する以上に快感がありました」

 2年後のロンドンパラリンピックに向けて、チームも田中自身も自信をつけ始めていた。田中の体に異変が起きたのは、そんな矢先のことだった。世界選手権から帰国して初めての代表候補合宿2日目の朝のこと。いつものように車いすに乗って漕ぎ始めると、左肩に痛みが走った。実はもともと脱臼しており、それまでは注射をうちながら、だましだましプレーしていたのだ。

「以前から医者には、このまま酷使すればいつか動かなくなって手術をしなければならなくなるよ、と言われていたんです。すぐに“あぁ、ついに来たな”と思いました」

 だが、合宿をリタイアすることはしなかった。田中にはこれが最後の代表活動になることが、うすうすわかっていた。ならば、最後までやり遂げて終わらせたいと思ったのだ。

 合宿後、すぐに病院で診てもらうと、左肩の骨が削られて変形しており、すぐに手術が必要とされた。結局、田中はパラリンピックには一度も出場することなく代表引退を余儀なくされた。それでも車いすバスケは続けたいと思っていた田中は、必死のリハビリで4年後に完全復帰を果たした。

 その後は、千葉ホークスの後進の育成に注力してきた。復帰した年にアシスタントコーチに就任し、昨年からはHCを務めている。長い間低迷が続いている千葉ホークスだが、近年は東京パラリンピック日本代表の川原凜をはじめ、緋田高大や池田紘平も強化指定選手に入るなど、若手も育ってきている。さらに黄金時代を知るベテランの土子大輔、千脇貢もチームに復帰。戦力がそろい、次の天皇杯ではチームとしては07年以来の、そして田中がHCに就任して初めての優勝を狙うつもりだ。

 さらに、田中にはもう一つ大きな目標がある。日本にプロリーグを設立することだ。現在、欧米にはいくつもリーグが存在している。いずれも強豪チームではプロとして契約する選手が多く、海外からトッププレーヤーを呼んでいる。だが、完全なプロリーグとなれば、世界初だ。

「最初はチーム数が少ない小規模からでもいいので、海外からも選手を呼んで契約できるようなプロリーグを作りたいと思っています。車いすバスケ界のみならず、日本のパラスポーツのお手本になれたらなと。そして、最終的にはオリンピックの競技にもしたいなと。それくらい車いすバスケにはスポーツとしての魅力が詰まっていると思っています。もちろん、どれも簡単なことではありません。でも、生きている限りはチャレンジし続けていきたいと思っています」

 20歳の時に灯した車いすバスケへの火は、これからも消えることはない。

世界初となるプロリーグ設立の野望を抱く田中[写真]=JWBF / X-1

(Vol.30では、田中選手がオススメの選手をご紹介します!)

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