2020.09.07

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.7】北田千尋「“頑張れる”幸せをかみしめ目指すは“世界一”」

日本代表候補として東京パラリンピックでの活躍が期待されている北田千尋[写真]=斎藤寿子
フリーライター

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.6で登場した湯浅冴華(ELFIN/NO EXCUSE)が「努力を惜しまず、自分を犠牲にしてでも周りを良くしていこうとする選手」と尊敬の念を抱いているのが、北田千尋(カクテル)。女子日本代表候補の一人として、来年の東京パラリンピックでの活躍が期待されている選手の一人だ。練習でも試合でも、人一倍の声でチームメイトを鼓舞し続けるなど、何ごとにも手を抜かない北田。彼女が頑張る理由には、ある思いがあった。

頑張ることが許されなかったバスケ。だからこそ募った思い

 北田は中学時代、バスケットボール部に所属していた。しかし当時はバスケに限らず、スポーツ全般が好きではなく、一番好きな時間は一人で読書をしている時だった。実は3歳の時から気管支喘息を患い、小学2年の時まで入退院を繰り返していたのだ。そのため、人見知りで、友だちと呼べる人は一人もいなかったという。

 そこで体が弱かったこともあり、娘のことを心配した母親は、近所の同級生に気にかけてくれるよう頼んだ。北田は小学校も中学校も、その同級生と一緒に登下校するのが日課となった。バスケ部に入部したのは、幼なじみとなったその同級生が入ったからだった。「気の置ける人がいたほうがいいかな」というのが理由だった。

 一方、スポーツは苦手としていた北田だが、負けん気は強かった。そのため、逆上がりも一輪車も、自ら居残って練習し克服した。だからバスケ部でも、努力しようとした。しかし、いくらしたくても、できなかった。実は北田には喘息のほかに、もう一つ抱えていることがあった。幼少時代から、少し長い距離を走ると両脚が痛くなるという症状に悩まされていたのだ。そのため、3年間“だましだまし”でしかすることができなかった。

 精一杯の努力ができなかったことが心残りだった北田は、高校でもバスケを続けたいと思った。だが、良くなることはなかった脚の状態を考えれば、また同じように苦しむことはわかっていた。未練を捨てるため、北田はバスケ部のない高校に進学した。

 しかし、バスケへの気持ちは強まる一方だった。そして北田は、ある妙案を思いついた。自分はプレーヤーではなく、コーチ役になればいいと考えたのだ。

「何もプレーヤーにならなくても、バスケには関われるじゃん、って思ったんです。うまくなりたくて、中学時代からバスケの専門書をよく読んでいました。だからその知識を使って、コーチになろうと思いました」

 中学時代、頑張りたくても頑張れなかった時の悔しい思いが、北田を突き動かしていたのだろう。内気な性格で、一人でいることを好んでいたはずが、自ら学校に直談判し、バスケ部創部に奔走した。

 無事に学校からも承認され、バスケ部の活動をスタートさせた北田は、選手登録はしていたものの、実質的にはチームのヘッドコーチとして、練習から試合からすべて指揮を執った。すると、指導者としてのやりがいを感じ、5年間の高等専門学校を3年で自主退学。体育教師になるために大学に進学した。

究極の目標は“世界一バスケを楽しめるプレーヤー”

 車いすバスケを始めたのは、大学時代のこと。3年生の時にインターンシップで訪れた障がい者スポーツセンターの職員に誘われたのが、きっかけだった。すると、初めての練習でたちまち魅了されてしまった。

「これまで走るとすぐに脚が痛くなるので、走る気持ちよさを感じたことがありませんでした。でも、競技用車いすに乗ったら“思い切り走り回りたい”という願いが一瞬にして叶ったんです。衝撃的でしたし、何よりうれしさがこみあげてきました」

北田にとって“走り回れる”喜びを教えてくれたのが車いすバスケだった[写真]=斎藤寿子

 それでも最初は、本格的に車いすバスケをやろうとは思ってはいなかった。しかし、周りが放ってはおかなかった。練習に参加するようになって1年後の2011年に正式に選手登録をすると、その年に第1回大会として開催された女子U25世界選手権に日本代表として出場。そこで初めて世界のレベルを目の当たりにした北田は、「もっと上手くなれば、もっと楽しめるんだろうな」と考え、本格的にトレーニングを始めた。

 2012年に現在のチーム「カクテル」に移籍した北田は、その年の日本女子選手権大会(18年より皇后杯を下賜)で初めて優勝を経験し、日本一達成の喜びを味わった。それ以降、北田の最大の目標は“世界一”となった。

 しかし、“世界一”は単なる強さだけを指してはいない。北田にとって「世界一うまくて強いプレーヤー」は「世界一バスケを楽しむことのできるプレーヤー」だ。勝敗やメダルは、その先の結果でしかない。

 それにしても、なぜ北田は努力することを惜しまないのだろうか。すると、意外な答えが返ってきた。

「私は、“努力”という言葉が好きではないんです。何か我慢を強いて無理やりやらされている感じがして……。私は、自分がやりたいからやっているだけ。それだけなんです」

 そして、こう続けた。

「私にとって一番辛いことは、頑張りたくても頑張ることができないこと。それを中学の時に嫌というほど味わいました。だから、練習を辛いと思ったことはありません。思い切り頑張ることができる。それは私にとって、幸せでしかないんです」

北田が「人にもバスケにも純粋すぎるほど純粋」(湯浅)な由縁は、ここにあるのかもしれない。

来年の東京パラリンピックでは“世界一楽しむ姿”を見せることが目標だ。その先にこそメダルがあると信じて――。

“世界一バスケを楽しめるプレーヤー”を目標に思い切り頑張れることが何よりうれしい[写真]=斎藤寿子

(Vol.8では、北田選手が注目している選手をご紹介します!)

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