インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
Vol.24で登場した大島朋彦(ワールドBBC)とは同い年で、ともに長い間日本代表の主力として活躍したのが是友京介(神戸STORKS)だ。パラリンピックには1992年バルセロナから08年北京まで5大会連続で出場。17年間という歳月を日本代表活動に捧げた是友にインタビューした。
人生で初めて魅了されたスポーツとの出合い
是友は、もともとスポーツにはまったく興味がなかった。中学校時代にハンドボール部に所属していた時期もあったが、すぐにやめてしまったという。その彼が、人生のすべてをかけるほど魅了され虜となった唯一無二のスポーツが、車いすバスケットボールだ。
車いすバスケを初めて知ったのは、16歳のとき。交通事故に遭い、入院していた是友の元に、現在所属するチームの選手が勧誘に来たのがきっかけだった。
「当時はインターネットがなかった時代。車いすのスポーツがあることも知らなかった。だから誘われるがままに練習を見学に行って、びっくりでした。“こんなに動けるの?”と、すごいの一言に尽きましたね。でも実際にやってみると、全然できないんですよ。それで悔しくてね。負けず嫌いの気持ちが前面に出てきて、練習にのめりこむようになりました」
一方、車いすバスケと同時期に始めたのが、陸上だった。始めて1年後にはフェスピック競技大会(現アジアパラ競技大会の前身)に日本代表としてマラソンに出場したり、国内のハーフマラソン大会で優勝したりするなど、車いすランナーとして活躍していた。
しかし、20歳の時に陸上をやめ、車いすバスケ一本に絞ることを決めた。その理由を、是友はこう語る。
「陸上は練習もそうだし、レースでも勝っても負けても一人。僕はもともと大勢でワイワイやるのが好きなので、寂しがりやの自分にはちょっと向いていなかったんです。その点、みんなでつくりあげていく車いすバスケはすごく楽しくかった。だから車いすバスケに専念することに決めたんです」
ちょうど同時期に車いすバスケでも頭角を現し始めた。91年、翌年に控えたバルセロナパラリンピックに向けた代表選考の合宿に呼ばれるようになったのだ。是友の記憶によれば、選考は第8次まであったという。最後まで残り、見事日本代表に抜擢。バルセロナパラリンピックにはチーム最年少の21歳で出場した。
「合宿でも僕が最年少だったと思いますが、たとえば3分間走のタイムとか、20分間でのシュート成功率など、どれもトップの数字を出していたんです。僕が所属するチームはそれまで日本選手権に出場したことがなかったので、誰も僕のことを知らなかったでしょうから、先輩たちにすれば“オマエ、誰やねん”っていう感じだったでしょうね(笑)」
4度目のパラリンピックで得た達成感
その後、08年北京パラリンピックまで一度も落選することなく、日本代表の座をキープし続けた。だが、実はこの間、一度は代表を引退することを考えた時期があった。3度目のパラリンピックとなった00年シドニー大会の時だ。
「当時はサラリーマンとしての仕事量が半端なくて、車いすバスケとの板挟み状態でした。パラリンピックに出場するためには長期の休暇をもらわなければなりません。そのぶんの仕事をこなさなければいけないので、本番前の1カ月はほとんど練習できなかったんです。こんなんではどうしようもないなと。30歳で3度もパラリンピックに出場したし、もういいかなと思っていたんです」
そんな是友の気持ちを変える出来事が起きたのは、シドニーパラリンピックでの最後の試合となった9・10位決定戦だった。1点ビハインドで迎えた第4クォーター残り6.9秒で是友がフリースローを2本ともに決めて逆転。そのまま1点差で日本が勝利を挙げた。この劇的なシーンを現地の会場で見守っていた妻が、こう言ったのだ。
「もう少しがんばってみたらどう?」
この言葉に、是友はもう一度、高みを目指すことを決意した。しかし、その後も仕事で多忙な毎日を送っていた是友は「これでは何も変わらない」と悩んでいた。そこで次のアテネパラリンピックを2年後に控えた02年、仕事をやめて競技に専念することを決意した。
「実はその時、妻のお腹には長女がいました。それでも妻は“なんとかなるよ”と言ってくれました。それと大きかったのは兄の言葉でした。相談したら“がんばってみたらえぇんちゃうか。仕事を辞めようと思うくらい人生をかけて熱中するものがあるのは羨ましいわ。その代わり覚悟を決めなあかんで”と背中を押してくれました」
体育館の近くに引っ越しもし、約2年間、是友はバスケ漬けの毎日を送った。そうして迎えたアテネパラリンピック、日本は8位という結果に終わった。しかし、是友にはそれまでのような後悔の念は一切なく、初めて味わう達成感があった。
「アテネはやれることはすべてやったうえで臨んだ大会。8位という成績でしたが、これだけやっての結果なら仕方がないなと。それ以上に、自分としてはやりきった感のほうが大きかったですね」
是友の活躍は高く評価され、アテネ後は現在も所属する車いすメーカーの日進医療機器から正社員でありながら競技に専念できるというオファーを受けた。日本のトップ選手として活躍する是友が使用する日進のバスケ車の売り上げは伸び、プレーヤーとしての価値は高まる一方だった。
08年北京では日本男子としては過去最高の7位に貢献した是友。12年ロンドンパラリンピックも目指したが、6度目の出場は叶わなかった。それでも20年間という歳月を代表活動に捧げた彼の功績は、今も決して色褪せてはいない。
「16歳でケガをして車いす生活になった時は、この後の人生どうなるんだろうと思っていましたが、車いすバスケに出合ったことで人生が変わりました。それまでは、こんなにも一つのことに夢中になるなんてことはなかった。車いすバスケからすべてを教えてもらった気がします。これもいろいろな人に支えられたおかげ。感謝しています」
現在は、所属するチームでプレーイングマネジャーとしてバスケを楽しんでいる。これからもバスケとともに人生を歩んでいくつもりだ。
(Vol.26では、是友選手がオススメの選手をご紹介します!)