2021.04.12

【車いすバスケリレーインタビュー 男子Vol.23】藤本怜央「ゼロからのスタートだった東京への道」

19歳から日の丸を背負い、世界と渡り合ってきた藤本怜央[写真]=斎藤寿子
フリーライター

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 Vol.22で登場した古澤拓也(パラ神奈川)が「自分のバスケ人生にとって欠かせない存在」と語るのが藤本怜央(宮城MAX)。19年という歳月を日本代表活動に捧げてきた存在だ。パラリンピックには2004年アテネから4大会連続で出場。常にエースとしての期待を背負い、チームの大黒柱として活躍してきた。しかし、東京パラリンピックを目指すことは「過去の経験はないものとしてゼロからのスタートだった」と話す。今年で38歳となる藤本。“日本代表としての最終章”とする東京パラリンピックへの思いを語った。

東京パラへ決心をさせた妻からのひと言

「ついにきたな」。2021年、藤本は改めて覚悟する思いで迎えていた。ここまでの道のりは19歳からの代表人生で最も過酷だった。

 キャプテン&エースとして臨んだ16年リオパラリンピック。藤本は本気で史上初のメダル獲得を狙っていた。そしてその目標が実現することを信じ切っていた。しかし現実はあまりにも厳しかった。決勝トーナメントにさえ進出できず、結果は12年ロンドン大会と同じ9位に終わった。それでもロンドンまでとは違い、藤本にリオまでの4年間に対しての後悔の念はなかった。

「もちろん悔しかったですよ。でも、ここまで必死にやってきての結果なら受け止めるしかない、と思いました。年齢的にも次の東京パラリンピックは、まったくイメージできなかったです」

漠然とではあったが“代表引退”という道を考えながら帰国したという。そんな彼がもう一度世界の舞台に上がる決心をしたのは、妻の優さんからのひと言だった。

「ちゃんと肘を治して、もう一度頑張ってみたら?」

 実は藤本の肘はリオ前から悲鳴をあげていた。当時は日常生活にも支障をきたすほどの激痛が襲っていたという。リオ大会期間中は鍼治療やマッサージで痛みを緩和することしかできなかった。

「そんな状態の自分で果たしてやりきったと言えるだろうか、と妻の言葉で気づきました。自分一人ではやってきたと思ってはいましたけど、僕には自分と同じくらいの覚悟を持って支えてくれる家族がいる。その家族のサポートを受けて、もう一度だけやってみようと思いました」

 しかし、藤本を待ち受けていたのは、それまでに経験したことがないほどの茨の道だった。

3年をかけて確立させた存在意義

 日本が東京パラリンピックに向けて大事な一歩を踏み出した17年6月の国際大会「コンチネンタルクラッシュ」(イギリス)に藤本の姿はなかった。リオパラリンピックから帰国して1週間後にはドイツに渡った藤本は、すでにBGハンブルクと契約を交わしていたために、肘の痛みを我慢してブンデスリーガに参戦。ようやく肘の治療にとりかかったのは、シーズンが終了して帰国後の17年春のことだった。その後、炎症が見つかった肘にメスを入れた。

 そして代表活動に復帰すると、そこに藤本が知る日本のバスケはなかった。日本は若手が台頭し世代交代が進むなか、完全にトランジションバスケにシフトチェンジしていたのだ。その時、車いすバスケ人生で初めて危機感を募らせたという。

「すでに若い世代がトランジションバスケで、その年の男子U23世界選手権で4強入りしていました。その彼らが生き生きと自分のはるか先のバスケをやっている姿を見て、“今までのような定位置はないんだな”と。実際1カ月後のMWCC(三菱電機WORLD CHALLENGE CUP)で、僕のプレータイムはがっつり減りました。世界にどう勝つかより以前に、まずはこのバスケで存在意義を確立させなければ代表に残れない立場なんだ、ということを痛感させられました」

 過去の功績などはまったく関係なかった。それどころか、自分はほかの誰よりも後れを取っていた。そして、年齢を考えても簡単にはいかないことは容易に想像できた。それでも藤本は覚悟を決めた。

「正直に言えば、若手に追いつき追い越すにはどこまで上げなくてはいけのかを考えると、しんどいなと思いました。でも、彼らと一緒に高いレベルでできたら、きっと金メダルが取れるという確信がありました。もう自分についてこいではなくて、僕自身が若い世代に必死についていく感じでした」

「若手とサバイバルな環境に身を置いてバスケができていることが楽しくて仕方ない」と語る藤本[写真]=斎藤寿子

 さらに藤本の気持ちに喝を入れたのは、18年世界選手権だった。1点差で接戦を制した最後のオランダ戦、藤本に与えられたプレータイムはわずか1分52秒。これまでにはあり得ないことだった。すでに決勝トーナメント進出が断たれ、9・10位決定戦ではあったものの、1点を争う競り合いのなか、出場した11人中最も少ない時間しか与えられなかったことに自分の現在地を痛感せざるを得なかった。

「“あぁ、オレがいなくてもこのチームは勝てるんだな”と。まずは、その現状を受け入れなければいけないと思いました。でも“次はオレがいたら1点差なんかじゃなくて、もっとリードしてみせる”とも思いました。絶対に“やっぱり日本には藤本が必要だ”と思わせてやると心に強く誓いました。あの世界選手権は、僕にとってすごく良かったと思っています」

 その思いを体現させたのが、翌年のアジアオセアニアチャンピオンシップス(AOC)、オーストラリア戦だった。過去に何度も打ちのめされてきた強豪相手に、日本は64-61で激戦を制した。その試合で藤本はチーム最多の19得点を挙げて、勝利に大きく貢献した。

 なかでも手応えを感じたのは、4Qのスタメンに入ったことだった。リオ以降、ついていくのに必死だったという若い世代の選手たちとともに大事な4Qを託された時、「ついにこのポジションまできた」と気持ちが奮い立った。

 そしてプレーでもしっかりと見せた。残り1分でゴール下でのタフショットを転倒しながらもねじ込むと、バスケットカウントとして得たフリースローも決めて同点とした。さらに決勝点を挙げたのも藤本だった。1年前、自らに誓った通り“日本に藤本あり”の姿を示したのだ。

 最後に残されたミッションは、東京パラリンピックでの金メダルだ。傍から見れば、パラリンピックでの過去最高が7位という日本にとって、それはあまりにも高い目標に映るだろう。しかしリオ以降どれだけ日本が強くなり、どれだけ世界から恐れられているかは自分たちが一番わかっている。

「世界選手権でもAOCでも結果を出せてないことは事実ですし、それはきちんと受け止めています。ただ僕たちは東京パラリンピックで結果を残すためにやってきた。5カ月後には金メダルを首にかけた姿をお見せします!」

 東京パラリンピックを代表としての最終章と決めている藤本。19年間日の丸を背負って世界と戦い続けてきたプレーヤーの最後の勇姿を、しっかりと目に焼き付けたい。

19年MWCCでチーム最年少の赤石竜我(写真左)に声をかける藤本(写真右)。チームの精神的支柱でもある[写真]=斎藤寿子


(Vol.24では、藤本選手がオススメの選手をご紹介します!)

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