インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
Vol.25で登場した是友京介(神戸STORKS)が「現役時代には同じ日本代表の先輩としてお世話になり、日本代表のヘッドコーチに就任した際には自分たち選手の意見も吸い上げてくれる指導者だった」と語るのが、奥原明男(長野WBC)だ。パラリンピックには選手としては1984年ニューヨーク/ストークマンデビル、92年バルセロナ、96年アトランタの3大会に出場。そして2008年北京大会はHCとして指揮し、車いすバスケットボール男子日本代表にとって過去最高成績の7位に導いた。現在は長野WBCでプレーイングマネジャーを務める傍ら、信州大学車いすバスケットボールチームのコーチも務めている。今年で競技歴43年となる奥原にインタビューした。
“地獄”のような練習にも勝っていた車いすバスケの魅力
車いすバスケに出会ったのは19歳の時。その3年前、16歳の時にバイクの事故で脊椎を損傷し、車いす生活となった奥原は地元のリハビリセンターに通い、機能訓練や職業訓練を受けていた。そこで車いすの販売員に声をかけられたことがきっかけだった。
「車いすバスケというスポーツがあることは知っていました。でも、一度も見たことがなかった。それで『見てみたい』と言ったら、練習に連れて行ってくれたんです。初めて車いすバスケのプレーを見た時の衝撃は今でも忘れられません。ケンカをしているんじゃないか、っていうくらい躍動感があって驚きました。“車いすでこんなことができるんだ”と感動して、その場でチームの加入を決めたんです」
そして、そこから“地獄のような”練習の日々が始まった。体力をつけるために、車いすに軽自動車のタイヤをロープで括り付けて漕ぐ“タイヤ引き”など、過酷なトレーニングが課されたのだ。
「当時は就職をして会社に勤めていたのですが、練習で疲労困憊になって帰りは自宅まで運転する体力さえも残っていませんでした。だから体育館と自宅との間の道に車を停めて車中で寝て、朝方に自宅に戻ってシャワーを浴びてすぐに出勤なんてこともしばしばでした。それでもやめたいとは思わなかった。先輩たちは練習は厳しかったのですが、週末には自宅に泊めてくれたり、食事をおごってくれたりして、最年少の自分をかわいがってくれたんです。それに練習がきついということよりも、車いすバスケの魅力のほうが断然勝っていました」
2年目から試合に出場するようになった奥原は、4年目の82年には日本代表候補の合宿に呼ばれるようになった。翌83年に日本代表デビューを果たすと、84年ニューヨーク/ストークマンデビルパラリンピックに出場した。当時は日本代表に入れただけで喜びが大きく、代表としての自覚や責任はまだなかったという。
その後徐々にチームの主力となり始めると、代表としての自覚が芽生えていった。しかし、88年ソウルパラリンピックに奥原の姿はなかった。代表への思いが少し強くなりすぎてしまい、それがもとで代表を辞退したのだという。
「練習量では誰にも負けていないと思っていましたし、試合で自分を使ってほしいという気持ちが非常に強かったんです。それでコーチとぶつかってしまいまして……。まぁ、私も若かったというのもあって、自分から代表を辞退してしまいました。当然、地元チームの先輩からは“そんな自分勝手なことをするんじゃない”とこてんぱんに叱られましたよ(笑)。先輩に“チームの中にオマエという存在は絶対に必要なんだ”と言われたこともあって、ソウルの後は代表に戻りました」
92年バルセロナ、そしてキャプテンを務めた96年アトランタと2大会連続でパラリンピックに出場。さらに98年には地元で開催された長野パラリンピックにアイススレッジスピードレースの選手として出場。夏冬あわせて4度、世界最高峰の舞台に上がった。
忘れられない表彰式での君が代
その後、代表の首脳陣の求めに応じ、シドニーパラリンピック後車いすバスケ代表に復帰。北九州で開催された02年世界選手権に出場したが、それを最後に代表を自ら退いた。首脳陣から引き留められながらも辞退したのは、ある思いがあったからだった。
「2年後のアテネパラリンピックまで残ってほしいと言ってもらったのですが、すでに若手が伸びてきていたなかで、自分がいたら新しく日本のバスケが育っていかないなと。自分はもう身を引くべきだと思ったんです」
その後、05年からは男子日本代表のHCに就任し、08年北京パラリンピックで指揮を執った。奥原が率いたチームは7位と、男子日本代表のパラリンピックにおける最高成績を挙げた。
「北京の時には、現在も日本の中心となって活躍している藤本怜央(宮城MAX)や香西宏昭(NO EXCUSE)が成長著しい若手として注目されていました。また、現在は男子日本代表ヘッドコーチの京谷和幸も中心選手の一人でした。そんな彼らを率いてパラリンピックで指揮を執れたことは、指導者としてやりがいがありました」
一方現役選手時代を振り返ると、パラリンピックの現地に入ってからケガをしたりと、「納得できたことは一度もなく、中途半端に終わってしまった」と感じているという。だが、誇れる思い出もある。その最たる瞬間は、94年の世界選手権アジアオセアニア予選だ。それまで日本が一度も勝つことができずにいた強豪オーストラリアとの接戦を制して優勝したのだ。
「表彰式で君が代が流れた時、感動のあまり自然と涙が出てきました。決してチームは万全なコンディションではなく、満身創痍の状態でした。それでもチームが一つにまとまることができた。チームの結束力のすごさを改めて感じた試合でもありました」
そして、こう続けた。
「あの時涙がこぼれるほど感動した君が代を、東京パラリンピックの表彰式でも聞けることを願っています」
今も車いすバスケへの情熱は少しも色褪せていない奥原。選手としては第一線を退いたが、それでも指導のかたわら多い時には週に5日は体育館に通い、練習にも参加している。
インタビュー中、「この後も練習に行きますよ」と話す奥原の表情には、車いすバスケ愛が溢れていた。“No wheelchair basketball,No life”――車いすバスケは奥原の人生そのものなのだ。
(Vol.27 では、奥原選手がオススメの選手をご紹介します!)