インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。
文=斎藤寿子
Vol.29で登場した田中恒一(千葉ホークス)が「チームが苦しい時代を一緒に乗り越えてきた仲間の一人」と語るのが、植木隆人(千葉ホークス)だ。17年前、車いすバスケットボールを始めた当初から目指してきたパラリンピック出場は、これまで一度も叶わなかった。しかし、上を目指す気持ちは未だ薄れてはいない。練習をするたびに「まだまだうまくなれる」と自らの可能性を感じているという植木。もう一つの大きな目標に向かってバスケ一直線の植木にインタビューした。
やる気スイッチを押した負けず嫌いな性格
もともと根っからの“野球少年”だった植木は、俊足・強肩のセンターとして活躍。6年生の時には4番打者としてチームをけん引する存在だった。しかし中学校に入ると、急に野球への熱が冷めてしまったという。プライベートでは週に一度の野球塾に通い続けたものの、学校の野球部は2年時からはほとんど行かなくなっていった。ほかに何かやりたいことも見つからず、毎日がただ過ぎて行った。
そんなある日のこと。中学校の卒業式を1カ月後に控えていた2月、交通事故に遭い、脊椎を損傷するという大けがを負った。車いすバスケを知ったのは、病院に入院していた時のことだった。
「入院中、リハビリでは車いすテニスをしていたのですが、車いすバスケがあることも知ってはいました。でも、全く興味はありませんでした。退院する時に、車いすバスケをしているという人に誘われたりもしたんです。でも、断りました。正直、野球をしていたこともあって、15歳の僕には“障がい者スポーツなんてダサい”と毛嫌いしていたんです」
退院後、2年間は何もやりたいことが見つからないままだった。「このままではダメだ。何かしなければ」。真剣にそう思い始めていたタイミングで、再び車いすバスケへの誘いがあった。退院していた時に声をかけてくれた人からだった。熱心な誘いに背中を押されるようにして、植木は初めて車いすバスケをインターネットで見た。すると想像をはるかに超えて迫力もスピードもあるスポーツであることが分かった。その後、地元九州のチームに加入したのは18歳の時だった。
最初は楽しいとは全く思えなかった。練習の大半は走ったりチェアスキルの基礎を繰り返すばかりで、ボールを使ってのメニューはほとんどなかったからだ。しかも思っていた以上に難しく、自分よりも体の状態が悪い選手にもかなわない自分が嫌で仕方なかった。するとある日、チームの先輩からこんなことを言われたことがあった。
「オレたちのように状態が悪い選手は、どうやったって状態の良い選手には勝てないよ」
この一言に、元来負けず嫌いの植木の心に火が付いた。
「自分でもそう思ったことはあったのですが、人から言われるとすごく悔しかったんですよね。ケガをする前は脚力には自信があったので、手で漕ぐ車いすでも走るということに関しては絶対に速くなれるはずだと。絶対に誰よりも速くなってやると思えたことで、俄然やる気が出てきました」
がむしゃらに練習に励んだ結果、3カ月後には走るスピードではチームで一番になった。植木は「もっとうまくなりたい」とさらに練習に励むうち、すっかり車いすバスケに夢中になっていた。
そのころからあったのは日本代表への憧れだった。チームに加入したその年に行われた04年アテネパラリンピックには、チームの先輩、神保康広が出場していた。身近に日本代表がいたことで、植木も自然と「ゆくゆくは日本代表として世界と戦ってみたい」という気持ちが芽生えていたのだ。
07年に初めて日本代表候補の合宿に招集されると、植木はさらに高みを目指そうと関東のチームに移籍することを決意した。最終的に移籍先に決めた千葉ホークスは、その年に日本選手権(18年より天皇杯を下賜)で3連覇を達成するなど国内随一の強豪チームで、代表クラスの選手たちがしのぎを削り合っていた。植木もそんな中でもまれ、レベルアップしたいと考えたのだ。千葉での就職先も見つけ、植木は翌08年に移籍した。
見せたい「好きだからこそ」の成長と可能性
転機が訪れたのは、移籍して6年後の2014年のことだった。日本選手権でチームの準優勝に貢献し、オールスター5にも選出された植木は、その活躍が高く評価され、日本代表候補の合宿に招集された。それまでも何度も合宿に参加してはいたが、公式戦や海外遠征のメンバーに選ばれることはなかった。しかし、14年9月に行われたアジアパラ競技大会に初めてメンバー入りし、ついに代表デビューを果たした。
「その年の7月に行われた世界選手権には選考合宿にさえも呼ばれていなかったんです。すでに27歳になっていましたし、“このままではやばいな”と。どうしたら選ばれるのか真剣に考え、代表でのプレーに対する意識を変えました。それまではシュートを決めることにばかりフォーカスしていたのですが、ちゃんと代表として求められているものを理解してプレーしなければと。それで自分を犠牲にしてでもチャンスメイクを大事にするとか、ディフェンスのスキルを磨くなど、苦手意識を持っていたことにも積極的に取り組むようになりました。アジアパラでメンバー入りできたのは、それを評価していただいたのだと思います」
アジアパラでは、日本は準決勝でそれまでまったく勝てずにいた強豪イランを破る金星を挙げた。ところが、決勝ではそれまで格下だと思っていた韓国に敗れ、日本は優勝という目標を達成できなかった。そして植木もまた、自分自身の力不足を痛感していた。
「自分の実力が全く足りていないことに気づかされた感じでした。チャンスメイク、ディフェンス、フィジカルの強さと、自分がやろうとしていたことが全く通用しませんでした」
帰国後、植木はさらに練習に励んだ。しかし2年後の16年リオパラリンピックのメンバーには選ばれなかった。そして17年まで守り続けた代表強化選手の座も、18年には失ってしまった。落選の通知が来た後、しばらくはショックの気持ちが続き、なかなか次に進むことができなかった。
「正直、なんとなく落とされるような気がしていたんです。代表の中で自分のプレーがかみ合っていないというか、しっくりきていないということは分かっていましたから。それでも努力し続けてきた中での落選は、やっぱりキツかった。ここまでやってもダメなのかと、心が折れかけました。でも、ある日“もっとうまくなりたい”と思っている自分がいることに気づいたんです。それで“いやここまでなんかじゃない。もっとやれるはずだと信じて前に進もう”と。それで、ようやく前に向きに考えられるようになりました」
これまでと同じことをしていてはダメだと考えた植木は、アメリカのリーグに参戦することを決意。日本代表が世界選手権に臨んでいた8月に渡米して視察し、チームと交渉した結果、NBAサクラメント・キングスの傘下にあるサクラメント・ローリング・キングスへの加入が決定。秋から春にかけての1シーズン、植木は主力の一人としてプレーし、心技体すべてを磨いた。
1ランクアップした植木のプレーは、代表の首脳陣からも高く評価されたのだろう。2019年、植木は強化指定選手に復帰し、東京パラリンピックを目指す権利を勝ち取った。だが、14年のアジアパラを最後に公式戦のメンバーには一度も選ばれてこなかった植木が、すでに出来上がりつつあった日本代表チームの一角に入ることはやはり難しかった。植木は再び“かみあわない自分”を感じ始めていた。
「気持ちばかりが前のめりで、空回りする感じでした。当時は気づいてはいませんでしたが、“失敗したらダメだ”ということばかりを考えてしまっていて、逆にミスが増えていったんです」
翌2020年、強化指定選手のリストに植木の名前はなかった。ショックは大きかったが、それでも後悔の念は微塵もなかった。
「アメリカに行ったこともそうですし、やれることはすべてやっての落選だったので、“やり遂げたな”と気持ちはすっきりしていました」
当初は現役を引退することも考えたという。しかしふと「あれ? オレってなんでバスケやってるんだっけ?」と考えた時、出てきた答えは「好きだから」だった。
「代表を目指していたのも、結局は車いすバスケが好きで、うまくなりたいからだったからだなと。だったら、代表がダメだったからといって引退なんかすることなんかないよなと思ったんです」
現在も代表を目指していたころと同じ強度で練習の日々を送っている。練習すればするほど湧いてくるのは「まだまだ自分はうまくなれる」という自信だ。すでに次の目標は明確にある。天皇杯での優勝だ。実は植木が加入して以降、千葉ホークスは日本一になっていない。次の天皇杯では主力としてチームをけん引し、11連覇中の宮城MAXの牙城を崩して12大会ぶりの王座奪還を果たすつもりだ。
「日本代表になれなくても努力を続ければ、こんなにも高いレベルにいけるんだというところを見せたいと思っています」
バスケが好きだという気持ちが、これからも植木の可能性を広げ続けていく。