第4Qだけで21点差を挽回したピアースとセルティックス
今からちょうど16年前、2002年5月26日(現地時間25日)。イースタン・カンファレンス・ファイナル第3戦で、驚異的な逆転劇が生まれた。
02年のイースト決勝カードは、ニュージャージー・ネッツとボストン・セルティックス。その直前となる00-01シーズンにプレーオフ出場さえしていなかった両チームは、この01-02シーズンに急上昇。
ネッツはリーグ屈指の司令塔、ジェイソン・キッド(元ダラス・マーベリックスほか)の加入により、前年の26勝から52勝へ大躍進。イーストトップでプレーオフに出場し、イースト決勝まで勝ち抜く。
一方のセルティックスは、01年途中に就任したジム・オブライエンHCの下、ポール・ピアースとアントワン・ウォーカー(共に元セルティックスほか)を中心に、リーグ2位の被フィールドゴール成功率(42.5パーセント)、リーグ9位の平均失点(94.1失点)を誇るディフェンスを武器に、リーグ最多の試投数(平均23.7本)を記録する3ポイントシュートを多用するチームとして台頭。イースト3位となる49勝33敗を挙げ、堂々イースト決勝までたどり着いた。
両チーム1勝1敗で迎えた第3戦。第3クォーター終了時点で、アウェーのネッツが74-53と、21点もの大量リードを奪う展開に。ホームのフリート・センターに集まった観客の中には、あまりにも大差をつけられてしまい、会場を後にしようとしている人がいてもおかしくはない状況だった。
ところが、セルティックスは第4クォーターで21点ビハインドを一気に巻き返した。ヴォーカル・リーダーのウォーカーがチームを盛り立て、ピアースがその実行部隊の主役を務め、怒濤のスコアリングショーを展開していく。
このクォーターが始まると、セルティックスはピアースとウォーカーが先陣を切り、一挙11連続得点。残り9分13秒で、64-74の10点差まで縮めてみせた。
するとネッツはアーロン・ウィリアムズやケリー・キトルズ(共に元ネッツほか)らが奮闘し、13点差まで点差を引き戻すも、ピアースとケニー・アンダーソン(元ネッツほか)、ロドニー・ロジャース(元フェニックス・サンズほか)らが加点。残り2分41秒にはウォーカーのフリースロー2本が決まり、84-88と、4点差まで追い上げる。
残り2分29秒にウィリアムズがフリースローを2本沈めて、ネッツがリードを6点まで広げるも、一度火がついたセルティックスの勢いは止まることを知らなかった。
ピアースがそこから7連続得点を奪い、残り46.0秒で91-90と逆転。その後もリング下でアンダーソンがショットを決め、最後はピアースがフリースローを2投中1本成功させて、最終スコアは94-90。セルティックスが第4クォーターに、21点ビハインドから大逆転勝利を収めたのである。
最終クォーターに両チームが記録した得点は、セルティックスの41点に対してネッツはわずか16点。この試合でゲームハイとなる28得点をマークしたピアースは、このクォーターだけでネッツの得点を上回る19得点を1人でたたき出し、奇跡の大逆転劇で主役に躍り出たのだった。
スコアラーとしての実力をプレーオフでも証明したピアース
試合後、ピアースはウォーカーからどんな叱咤激励をされたかを聞かれ、「彼は俺たちに、『第4クォーターに何が起ころうが関係ない。勝つか負けるかだ。負けるんだとしても、最後まで戦って負けようじゃないか』と言ってきた」と返すと、「今夜、俺たちは恥ずかしい思いをしながら戦うわけにはいかなかったんだ」と自身の勝利への思いを語っていた。
しかしながら、このシリーズを制したのはネッツだった。第3戦の屈辱的な敗北から即座に立ち直り、第4戦から3連勝でシリーズに決着をつけた。ピアースは第4戦で31得点を挙げるも、第5戦は24得点、第6戦は14得点とダウンしていき、セルティックスにシリーズ3勝目をもたらすことはできず。
それでも、この年にプレーオフデビューを飾ったピアースは、“The Truth(本物)”という異名のとおり、チームをけん引するエースとして大活躍。フィラデルフィア・セブンティシクサーズとの1回戦ではアレン・アイバーソン(元シクサーズほか)の踏ん張りで最終戦までもつれるも、第5戦で10投中8本の3ポインターを沈めるなどゲームハイの46得点を挙げ、前年のイースト覇者を葬り去った。デトロイト・ピストンズとのイースト準決勝では勝負強さをいかんなく発揮し、スコアラーとしての格の違いを見せつけ、4勝1敗で圧倒。ネッツとのシリーズには敗れたものの、ピアース個人としては両チームトップのシリーズ平均23.7得点を挙げてスコアラーとしての実力を存分にアピール。
ピアースは08年にチャンピオンリングを手にするまで、プレーオフデビューから6年間を要した。それでも、この男が持つスコアラーとしての才能は、02年に見せた数々のパフォーマンスによって、誰もが認めざるを得ないほどの輝きを当時から放っていた。