2018.05.08

ミスター89ERS志村雄彦、引退。「選手としてやり切った。次は全身全霊をかけてチームを強くする」

小学校の時から何度もプレーしたカメイアリーナのコートにキス。感謝の気持ちを込めた[写真]=小永吉陽子
スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者に。国内だけでなく、取材フィールドは海外もカバー。日本代表・Bリーグ・Wリーグ・大学生・高校生・中学生などジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回る。

ホーム最終戦で涙の挨拶。仙台での10年間に感謝

 今季限りでの引退を表明していた仙台89ERS志村雄彦が、シーズンの全日程を終了し、選手としてのキャリアを終えた。ホーム最終3連戦は『引退シリーズ』として興行が行われ、とくにラストホーム試合となった5月2日は平日にも関わらず、カメイアリーナには3700人を超す観客が集まった。試合後には“仙台の顔”に感謝を伝えるべく、ハイタッチを待つファンの山であふれかえった。志村がコートを去ったのは、試合終了から1時間近く経ってのこと。どれだけ大勢のファンから愛されていたかがわかる。

 志村雄彦は89ERSの地元である宮城県仙台市出身。仙台高ではウインターカップ連覇を遂げ、慶応義塾大では4年次に関東リーグ戦とインカレ制覇を果たした。JBLの東芝で3年間プレーしたのち、2008年にドラフトで指名されて仙台89ERSへ入団。2011年の東日本大震災後にはチームが一時活動休止になるも、救済制度により琉球ゴールデンキングスへレンタル移籍。背番号『89』をまとってファイナルの舞台に挑んでいる。逆境にも前に進み続けることで、宮城県民や仙台市民を勇気づけてきたのだ。バスケットをするうえでハンデともなりかねない160㎝の身長に対しても、闘志あふれる勝負強さとリーダーシップを発揮。「考え抜いて駆け引きをしてきた」と自身が言うそのプレースタイルで、多くのファンを魅了してきたのだ。

闘志むき出しのスタイルも志村の魅力だった[写真]=小永吉陽子


 4月29日にゼビオアリーナで行われた引退セレモニーでは会場が暗転だったことから「泣くかと思っていたけれど、暗くてみんなの顔がわからない」と笑いを誘ったが、5月2日のホーム最終戦は会場が明るい中の挨拶。「やっぱり皆さんの顔を見ると……10年間、本当にありがとうございました」と涙で声を詰まらせたが、すでに来シーズンからは新たな運営体制のもとでフロント入りすることを表明しているように、最後はこう言い切った。

「優勝するという約束はまだ果たせていないので、次は新たな立場として89ERSが優勝する日を皆さんと一緒に噛みしめたいと思います」――。Bリーグの小さな巨人、志村雄彦がホームで伝えたラストメッセージをここに刻んでおきたい。

全力疾走したミスター89ERS。「悔いはない」

――5月2日、最後のホームゲームが終わっての率直な気持ちは?
志村
 「黄色いブースターの皆さんの前でプレーするのは最後」という気持ちでプレーしていました。1秒1秒、大切に戦おうと思いましたし、もう二度とここには戻ってこられない、もう二度とこういう経験はできないと、噛みしめるようにプレーさせてもらいました。自分としてはこれが志村雄彦というプレーを残せたと思うし、最後までコートに立てたことは良かった。

 ただ、勝ちを求めて試合をしていたにも関わらず、引退シリーズの興行は気負ってしまったのか勝てなかったので、自分の力不足を感じています。でも、負けたけど悔いはないです。最後の勝負となったシュートは決めようと思って打ちに行きましたし、そういうところでのシュートを決めてきた自負がある。シュートは外してしまいましたが、それもバスケットボール。毎日勝ちに向かってやってきたので、勝負を決めるところまで持っていけたことに後悔はないです。(現役最後のシュートはアウェーの愛媛にて、『89点目』となる3ポイントシュートを決めている)

――最後はコートにキスをしていましたが、その時の思いは。
志村
 もう二度とここには帰ってこられないんだな、ありがとう、という思いでした。この仙台市体育館(カメイアリーナ)は小学校の時から試合をしていて、何回も勝ったり負けたりしたいろんな思い出があるし、黄色いユニフォームを着て戻ってこられた原点のアリーナ。小学校の時からずっとプレーしていたこの体育館で終われて良かったです。

恩師、佐藤久夫氏の涙に志村ももらい泣き[写真]=B.LEAGUE


――仙台高時代の恩師、佐藤久夫先生(明成高)から試合前に花束贈呈がありましたが、何と言葉をかけてもらったのでしょうか。
志村
 「本当にお疲れ様」ということでした。先生が泣いちゃっていたので、僕ももらい泣きしちゃって、試合前なのに大変でした(笑) これから能代カップのため秋田に出発するという忙しい時に来てくれて、しかもこの仙台市体育館で会えてうれしかった。久夫先生に教わった高校時代というのは僕の原点のひとつなので、本当にありがたかったです。

――選手としてやり切った思いはありますか。
志村
 はい。やり切りました。それはいつでも思っていました。いつ終わってもいいようにと思ってやってきました。その時が来たということです。まだ選手としてやれるんですけど、引き際を自分で決められることは大事だと思って、次の道に行くことにしました。

――引退後は仙台のフロント入りを宣言。今後やっていきたいことは。
志村
 僕が小さい頃は地元にこういうチームができるとは思っていませんでした。今でも思い出すのは、小学生の時に父と一緒にアメリカにNBAを見に行った時のこと。あのような光景をいつか日本で見たいと思っていて、中村(彰久)代表をはじめとするスタッフがそれを作り上げてくれてくれた。継続してきたという意味では、本当に素晴らしいクラブだと思う。それを今度は自分が違う形で強くするチャンスがあるので、全身全霊をかけて自分の仕事をまっとうしたいし、89ERSを日本一にするのが次の僕の仕事です。やはり、アリーナは人が入って完成する。そのために自分がやれることを何でもやるつもり。フロントスタッフと一緒になってやっていきます。

選手でもフロントでも、故郷の仙台を盛り上げることが使命

多くのファンに別れを告げ、志村は来シーズンから愛される球団作りに励む[写真]=小永吉陽子


 引退シリーズを含めたラスト5試合のスタッツは、平均30分41秒出場、6.8得点、8.6アシスト、3リバウンド、1.6スティール。この数字が示すように、「まだやれる」というのは本音だろう。

 しかし、Bリーグになってこの2年、B2に降格して納得のいく成績が収められなかったことは事実。ゲームメイクでは志村を、得点では石川海斗を頼らざるを得なかった。「60試合を戦うには、もう1、2枚勝負所で力を出せる選手が必要だった。若手には勝負所で決められる選手になってほしいし、フロントはそういう選手を育成しなければならない」と志村が言うように、改革は迫られている。

 志村は常々こう話していた。「勝つことは当然大切ですが、観客に見に来てもらい、愛される球団にしたい」

 選手であろうと、フロントであろうと、掲げる目標は同じ。バスケットボールで故郷を盛り上げていくことが使命だと言わんばかりに、黄色いユニフォームを脱いだ志村雄彦の第二の人生はすぐにスタートを切る。

文・写真=小永吉陽子

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