3年目のBリーグ開幕を控えた9月下旬、現在女優として活躍する桜井日奈子氏と昨シーズン限りで現役を引退した大神雄子氏の対談が実現した。2人は「B.LEAGUE FINAL 2017-18」の観戦に訪れた際、会場の横浜アリーナで遭遇したというが、初めての出会いはそこではない。ともに幼い頃からバスケットに触れていた両者は、一体どのようにして出会ったのか。互いの印象や学生時代の“女バスあるある”、バスケットの魅力についても語ってもらった。
インタビュー・文=小沼克年
写真=山口剛生
地元岡山の試合観戦で、唯一もらえたサインが大神さん
――お2人は昨シーズンの「B.LEAGUE FINAL 2017-18」でお会いしたとうかがいました。
桜井 はい。会場でたまたま大神さんが私の目の前にいらっしゃって、「わぁ、大神さんだ!」って大興奮してしまいました。実は中学時代にもお会いしていて、(私の)地元の岡山で大神さんが試合されていたのを見に行きました。そこで「サインください」って言って、もらえた唯一のサインが大神さんでした。
――大神さんは桜井さんにサインしたことを覚えていますか?
大神 すみません。覚えてないんです……。
桜井 そうだと思います。なぜなら、裏口みたいなところで選手を待ち伏せしていて、そこにたまたま大神さんだけが出てきてくれたので。私は当時バスケノートを書いていたんですけど、そのノートにサインしてもらいました。
大神 素直に嬉しいです。絶対(記事に)載せてくださいね(笑)。Bリーグファイナルのときに声を掛けてくださったときは「マジかー!!」ってなりました。そこから、まさかこうして一緒にお話しさせて頂ける機会を頂けるとは思ってなかったです。
桜井 私も本当に嬉しいです。
――大神さんの存在はいつから知っていましたか?
桜井 サインを頂いたときの試合で初めて知りました。一番輝いていましたし私もポイントガードだったので、同じポジションの大神さんの動きをずっと見ながらノートをつけていました。
大神 おそらく私がJX(サンフラワーズ/現JX-ENEOSサンフラワーズ)にいた頃だと思います。本当に嬉しくてニヤニヤが止まらないです。
――桜井さんがバスケットを始めたきっかけは何ですか?
桜井 父がバスケットのコーチをしているということもあり、幼稚園の頃から始めていました。当時ミニバスのコーチをしていた父に早くから(ミニバスの)チームに入れてもらって、幼稚園から高校3年生までの13年間はずっとバスケをしていましたね。私の兄と弟もバスケをしていましたし、チーム練習がないときは家の庭のリングで練習していました。「学生時代は何してた?」と聞かれたら、「バスケ」としか答えられないくらいやっていましたね。
――大神さんもお父さまが指導者ですよね?
大神 そうですね。私も父が指導者という影響もあって、本当に35年の人生の中でバスケしかしてこなかったと思います。人生もバスケで学んで、色んな人と出会って、つながってというバスケット生活を送ってきました。姉もバスケをやっていたので、自然とバスケをする環境があったという点では(桜井さんと)似ている気がしますね。
――桜井さんの得意なプレーは何でしたか?
桜井 私は3ポイントシュートが一番得意というか、自分の武器だと思っていましたね。ポイントガードは周りの動きを把握しないといけないじゃないですか。でも私はピンチになるとすぐ視野が狭くなって、自分のことで手一杯になっちゃうような選手でした。それじゃダメだと思っていましたが、なぜか3ポイントを決めると余裕が持てて落ち着けました。
――大神さんは小学校、中学生時代どのような選手でしたか?
大神 実は私、小学校のとき70キロあったんですよ。
桜井 うそ⁉
大神 今はそんなにないですけど、当時は結構……。(当時)武双山という大相撲力士がいて、私のあだ名、武双山でした。そのくらいガッチリしてました。
桜井 じゃあ当時のポジションはセンターですか?
大神 そうです。ジャンプボールも私が飛んでいましたし、中学まではドスドスしながらゴリゴリのインサイドプレーヤーでした。この話は今まで封印していたんですけど、出しちゃいましたね(笑)。
桜井 ポジションが段々と変わるにつれて、やっぱり大変でしたか?
大神 当時から好奇心があったので、色んなシュート練習をしていたんですよ。インサイドのポジションだからといってゴール下の練習だけやっていたわけではなくて、3ポイントなども練習していたので、そんなに苦労は感じなかったですね。
――失礼な質問ですが、そこからどのようにスリムになっていきましたか?
大神 中学校に入ると自然になりましたね。というのも、家から学校までの距離が徒歩30分くらいあり、毎日通っていたのですぐ体重が落ちました。あと、「一番楽しかったのはいつ?」と聞かれたら「中学時代」と答えますね。それははっきりと言えます。
桜井 その理由は何ですか?
大神 正直、好きなようにやれたから。もちろん先生からの指導もありましたけど、自分で好き勝手なプレーもできて、自由にやらせてもらったからです。
バスケ人生で一番悔いが残った中学時代
――桜井さんは中学校時代のバスケ部での思い出はありますか?
桜井 中学時代は結構ガッツリやっていて、遠征なども行っていましたね。当時は「話し合いでキャプテンを決めよう」ということで、私が立候補してキャプテンをやりましたが向いてなかったなって(笑)。
大神 いや、挑戦したことが大事ですよ!
桜井 キャプテンとしてチームをまとめる器がなかったなと。ピンチになると自分のことしか考えられなくて、みんなを気にかけることができなかったです。最後の大会で「勝てるだろう」と思っていたチームに負けちゃったんですけど、その負け方が残り30秒で逆転されるという大逆転負けでした。そのとき逆転された時点で、諦めていた自分がいたんですよ。「もう絶対無理じゃん」って半泣きになって。諦めムードがキャプテンの自分から出ていたら周りに伝染してしまいますし、「何であのとき、もうひと踏ん張りしなかったのだろう」って、今でもその悔しい気持ちを思いだしてしまいます。私のバスケ人生で一番悔いが残った試合です。
――大神さんは楽しさ、桜井さんは悔しさが残る中学校時代だったのですね。
桜井 最後の最後で残ってしまいましたね。なので、高校ではバスケ部に入らないつもりでしたが、部活の説明会に行って話を聞いたら「やっぱりやりたい」ってなっちゃって高校でもやりました(笑)。
大神氏が現在の桜花学園に進学した理由
――大神さんが名古屋短期大学付属高校(現桜花学園高校)に進学した理由は何ですか?
大神 当時ウインターカップ(全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会)の試合をテレビで見ていて、「こんな学校があるのか!」と驚いたのがきっかけですね。そのときは名短(メイタン)と純心(女子高校)の決勝戦がテレビ中継されていたんです。最後の最後で純心が名短の選手に3ポイントファウルをしてしまって、そのフリースローを決めて名短が優勝するという、劇的な試合を小学校6年生のときに見て、「ここに行くしかない」と思いました。中学校3年間は色んな大会で勝ちたい気待ちもありましたが、自分の欲だけを言えば、名短に行くためにやってきた3年間でしたね。名短は愛知県で私は山形だったので、そのためには「全中(全国中学校大会)に出ないと見てもらえない」と思って、まずは全国に出ることを目標にしました。そのためには自分に何が必要なのかを考えて、日々練習に励んでいました。
桜井 中学生の時点ですでにスタープレーヤーだった大神さんなら、たくさんの学校からオファーがきたと思うんですけど、気持ちが揺らいだりはしませんでしたか?
大神 揺るがなかったですね。福岡の高校や地元(山形県)の高校にも声を掛けて頂きましたが、もう自分の中ではここって決めていたので。実際決めたのは、中学のときに高校の先生が試合を見にきてくださったときにその場で返事をしました。だから中学の先生にも両親にも事後報告(笑)。それだけ名短に行くってことは決めていました。
――大神さんに声を掛けてくれたのは、コーチの井上眞一先生ですか?
大神 そうです。現役を引退した今でもお世話になっていますし、「今日(桜花の)練習に来れるか?」って電話もよくかかってきます。
――桜井さんの高校時代のお話も聞かせてください。
桜井 私は進学校ということもあって、1日1時間練習ができれば満足というような学校でした。はじめから高校は緩くやろうと思っていましたけど、段々と勝ちにこだわりたくなってきて、「少ない時間の中でどれだけ効率的に練習できるか」という目標を持ってみんなで取り組んでいました。でもやっぱり勝てることが少なく、悔しい思いもいっぱいしました。あと、下級生のときは先輩たちがだれているのを許せなくて、「何でもっとちゃんと練習しないんですか?」みたいなこと言ってしまう全然可愛くない後輩でした(笑)。でもそれは勝ちたい思いが強いからこそであって、先生にもそれをぶつけたこともあります。試合が迫っているのに近くの中学生と練習していた時期があり、「先生、こんなことしていてる場合ですか?」ってカッとなって1人で出て行った経験もあります。今思えばそんなことする必要なかったなと思いますが、とにかく熱かったです。
大神 熱い気待ちは、何をするにせよ一番大事なことですからね。迷いながらでも「やる!」と決めたときに、周りがその気じゃなかったら自分で何とかして巻きこむこともすごく大事。みんな何かしら思っていても表現できない人が多い中で、「そこは違うんじゃないか」、「もっとこうしましょう」ってはっきりとNOを言える人はなかなかいないですし、しっかり主張できるというのは、1人の人間として大切なことだと思います。だからそこは怖がらずに挑戦してほしいですし、 チームの目標達成に向けて発言しているのであれば、それをしっかり受け入れる人間こそが本当のチームメートだと思います。
桜井 そう言っていただけると、救われた気持ちになります。
大神 なんか熱くなってきましたね!
――学生時代に先生やチームメートに掛けられた言葉で、一番印象に残っているのはどのような言葉ですか?
桜井 私は高校の頃に先生に言われた、「どんな経験も財産になる」って言葉ですね。なかなか勝てなかったので、みんなの気持ちが沈みがちだったんですけど「負けの経験こそ財産になるんだよ」って言ってくれて、本当にそのとおりだなと思いました。その言葉が私だけでなくみんなの心に響いたので、『財産になる』っていうLINEグループができました(笑)。
大神 私も高校時代の恩師、井上先生の言葉が今でも強く印象に残っています。中学3年のとき、愛媛県で行われた全中に出場したのですが、決勝戦の残り6秒で逆転され、その後打った私のシュートが外れて準優勝に終わったんです。だから次の目標は「高校で全国制覇だな」って思っていました。でも、井上先生は「世界で通用する選手を育てたい」と声を掛けてくださって。「日本代表で活躍する選手を育てることが自分の一番の役割」という先生の言葉が今も一番記憶に残っています。私の中では「次こそ全国制覇」と考えていたのに、先生はその上を行っていました。それをきっかけに、自分も目標設定を高く持とうと思うようになりました。カッコいいっすよね!
――バスケットをしている学生や子供たちへ、辛い練習を乗り超えるためのアドバイスがあればお願いします。
桜井 そうですね、私は「そもそも誰のためにやっているか」を常に意識していました。父に昔、「練習は辛いから嫌だ」って言うと、「じゃあやらなくていいよ、やりたくないなら辞めればいい」とよく怒られていました。「結局は誰のためにバスケをしているの?自分のためでしょ?」って父に言われてからはその言葉を励みにして、苦しいときには「自分のため」と思ったら歯を食いしばれると思います。
大神 そうですよね。 辛い練習は特にそういったマインドセットが必要だと思います。チームのためとも言いますが、自分のためにやることが、最終的にチームのためになりますからね。
コートネームは「シン」と「ヨク」
――女子バスケだと選手一人ひとりにコートネーム(コート内で呼ぶ名前)があると思うのですが、桜井さんはありましたか?
桜井 ありましたね。高校時代に翼って書いて「ヨク」って呼ばれていました。当時は漢字一文字で、先輩が後輩につけていましたね。私は候補が色々あって、頼るって書いて「ライ」とか、杏仁豆腐の「アン」とか。ただ翼が一番カッコいいなと思って「ヨク」にしました。あと、応援歌も未だに覚えていませんか?
大神 ね!しかも桜花は、私が当時いたときからある応援歌が今も使われているらしいです。
桜井 どんな感じですか?
大神 えーとね。え、今歌うんですか?恥ずかしいな……。「つらいー日々苦しことがー、ありーすぎてー胸が痛んだー」。すごくネガティブ(笑)。
一同 (笑)。
大神 いや、最初はこんな感じですけど、最後はちゃんと上がっていきますから。
――ありがとうございます(笑)。大神さんのコートネーム「シン」はいつからですか?
大神 高校のときからですね。名字の大神に「神(カミ)」の文字が入っているじゃないですか。それと私が「バスケの神様になれるように」という意味を込めて、「神」の読み方を変えた「シン」と(先輩が)つけてくださいました。コートネームは女子バスケ特有ですよね。男子にもないし、他の競技もあまりない気がします。
――女子ならではの“女バスあるある”はありましたか?
大神 バッシュをそろえるチームが多かったですよね。女子は何でもそろえていませんでした?
桜井 そうですね。私の学校はマネージャーがプレゼントしてくれたボールのお守りみたいなものを、みんなバッシュにつけたりしていました。
大神 「みんなでやる」とか、「みんなで同じものをつける」とかは女子の方が多いですよね。
――女子だとツーハンドでシュートを打つ選手とワンハンドで打つ選手がいますが、ツーハンドからワンハンドに切り替えるタイミングはどのあたりですか?
大神 私はアメリカでバスケを始めたので、ツーハンドを知らないんですよ。なのでずっとワンハンドで打っていました。
桜井 ワンハンドの選手はかっこよくて憧れでした。父には「ワンハンドの方が打つのが早いから、ワンハンドに切り替えろ」って言われたことがありますが、腕力がないのでワンハンドだと届かなくて、かたくなにツーハンドでした。
大神 ミニバスから中学校に進学するタイミングで、「ワンハンドに変えようかな」と迷う子が多くなるって聞きますね。
桜井 そうなんですね。ちなみに足は何センチですか?
大神 バッシュは26.5センチを履いてます。
桜井 大きいですね!
大神 足はデカいでいんですよ。
桜井 ヒールって履けるサイズありますか?
大神 ないですね、私はあまり履かないですけど。女子でも28センチ、29センチの選手がいたりしますけど、日本にはほとんどないので海外遠征のときに買って帰っていますよ。
桜井 そうなんですね。
大神 女子の選手は、なかなかパンプスとか日本では買えないですよね。大きい選手はみんな言ってました。
――“女バスあるある”がもう1つ出ましたね。
大神 あるあるだね。
桜井 ほんとだ!
バスケットはチームプレー、だからこそ色んな方とつながれる
――お互い忙しいお2人ですが、バスケットは現在の活動の中でどのように活かされていますか?
桜井 負けず嫌いな性格になったことで、お芝居で自分をうまく表現できなかったときに、自然と「もっとできるようになろう」と思えることは活きていると思います。あとは、礼儀の部分です。特に父は礼儀には厳しくて、バスケ経験者はみんなそうだと思いますが、靴をそろえる、挨拶をきちんとするなど、そういう根っこの部分は習っていて良かったと思っています。
大神 私もそこです。特に挨拶ですね。バスケって本当に挨拶がすっごい大事なんですよ。バスケ、スポーツに限らず何事も「最初と最後は必ず挨拶」だと思っています。普段絶対みんながすることですし、コミュニケーションの部分でも一番大切なことです。そこはバスケをとおして厳しく指導してもらった分、今でも本当に活きているなと。あとは声がデカい(笑)。いいか悪いか分からないですけど、大きい声でしっかり挨拶することは、バスケと出会ったからこそできるようになりましたし、今でも大きな財産になっています。
――せっかくの機会ですので、お互いに聞きたいことはありますか?
大神 桜井さんはバスケットのボールやユニフォーム、シューズなどで今でも大事に残しているものはありますか?
桜井 うーん……。そう言われると、なかなかないかもしれないです。でも、岡山の実家に思い出のバッシュは置いてありますね。
大神さんはずっとバスケ漬けの生活だったわけじゃないですか。現在は引退されてどんな活動をされていますか?
大神 私は今、引退したときに所属していたトヨタ自動車(アンテロープス)でディベロップメントコーチをやらせていただいています。色んな場所へ出向いてバスケを学び、そこで学んだことをチームに共有して、アドバイスや今後の選手育成に活かすという役割です。もう1つは6月にJBA(日本バスケットボール協会)のアンバサダーに就任したので、普及活動の一環でこれまた色んな場所でバスケをしています。あとは勝手に日本代表“AKATSUKIFIVE”の応援団長だと思っていますし、今でもバスケ漬けですね(笑)。
桜井 すごいバスケに携わっていますね!
大神 正直、現役のときより忙しい(笑)。なので、なんだかんだ今もバスケットに携わっています。でも現役時代と違うのは色々な方と出会って、話をして、改めて(バスケットを)外から見ると、「バスケってやっぱり面白いな」って感じます。それは選手のとき以上に感じていますし、だからこそ今の選手や後輩たちには「今を大事に頑張れよ」ってエールを送りたいです。
――今回対談されてみて、改めてお互いの印象はいかがでしたか?
桜井 出会った当時は、大神さんのことを「スタープレーヤーの大神選手」という風に見ていました。でも今は現役を離れられ、それでも全力でバスケに携わっていることを知れましたし、たくさん熱い思いを聞けたので本当に良かったです。現役の頃は選手として“神”だったけれど、今はさらに上の“バスケの神”になった方だなと感じています。
大神 普段はテレビで拝見していますが、今日話してみて、すごく芯があって自分を持っている方だなと思いました。「それはもしかすると、バスケットがそうさせてくれたのかな?」と思うと、自分としても学ぶ部分がありますし、自分が自分らしくいれることをこれからも大切にしようと気づかせてもらいました。
――最後にそれぞれが思うバスケットの魅力を教えてください。
大神 バスケットは1人ではできないスポーツです。みんなでディフェンスをしたり、パスをつないだり、シュートも決して1人の得点ではないです。得点ボードに個人の名前はないですし、ユニフォームの胸のところにもチーム名が載っていて名前は後ろですよね。やっぱり「勝つにも負けるもチームで戦う」ことがバスケットの魅力ですし、その一瞬一瞬にこだわることも私は大切だと思います。
桜井 同感です!本当に大神さんの言葉どおりで「バスケットはチームプレー」だと思います。私は経験者だから今日大神さんにお会いできましたし、芸能活動を始めてもバスケをやっていたから頂けたお仕事もたくさんありました。(バスケを)辞めた後でも色々とつながりがあるなと私は感じていますし、それはバスケをとおして人とつながれる“輪”だなと思っています。