コート上で戦う選手たちを支え、スタッフのサポートや取材対応も行うWリーグのマネージャーたち。普段、表に出る機会は少ないが、チームの勝利のために日々奮闘している彼女たちに、マネージャーになるに至った経緯や心得などを聞く新企画。
第1回は、Wリーグで11連覇中、皇后杯では見事7連覇を達成したJX-ENEOSサンフラワーズから山﨑舞子と小松佳緒里の2人が登場。選手としてのキャリアも豊富な2人がマネージャーになったいきさつとは何だったのだろうか。
山﨑舞子総括マネージャー
高校では全国大会を経験も卒業後にマネージャーへ
試合会場で響きわたる山﨑の声は女子バスケットファンには周知のところ。160㎝という身長からは想像も付かないほどのパワーを発する彼女だが、バスケットを始めたのは小学校3年生の時。「通っていた小学校のチームで部員が足りなくて、大会期間だけでもいいからバスケット部に入ってほしいと言われた」ことがキッカケとなった。
そして何も分からないまま入部した1週間後には試合に出場。しかし、「試合中、コーチが私に『そこに入るな』ってずっと言ってるんですよ。『何のこと?』と思っていたら、審判が『3秒!』って。最初はそんな感じでした」と当時を振り返る。
もともと、水泳や習字、そろばんなど習い事は多かった小学生だったのだが、山﨑がバスケットにのめり込んだのは、その後、転校先のチームが強豪だったことが大きく影響している。九州大会に出場するようなチームの中で力を付けると、中学ではジュニアオールスターの鹿児島県代表に選ばるほどまでに。「中学1年生でジュニアオールスターのメンバーに選ばれたのは私だけだったんです。だから当時は同じ学年の中では『私が鹿児島で一番だ』と思っていましたね(笑)でも、井の中の蛙。高校で天狗になっていた鼻を折られました」と本人は笑う。
しかし、その言葉とは裏腹に、入学した神村学園高校でも主軸を担い活躍。選手としてインターハイやウインターカップ出場を果たした。
その山﨑が高校卒業後にマネージャーに転向したのは神村学園の進藤一哉コーチから、ちょうど欠員のあったJX-ENEOSサンフラワーズのマネージャーを勧められたから。
「ケガをしていた高校2年生の時にマネージャーとして国体に連れて行ってもらって、そこでマネージャー業を経験したというのもあったし、先輩も含めて大学でバスケットを続ける人あまりいなかったんです。だから私の中で大学で続けるという考えがなく、高校卒業後もプレーを続けることに未練はありませんでした」と山﨑はその時の心境を語る。
そしてJX-ENEOSに入団し本格的にマネージャーへ。だが、「全然ダメ。気を利かせることができなくて、先輩たちには迷惑を掛けたと思います」と最初はうまくいかないことばかりだったようだ。
それでも、3年目にはマネージャーの仕事に慣れてきたと感じるように。キッカケはその年、アシスタントコーチが急遽チームから離れたことで山﨑の仕事量が増え、それを無我夢中ながらもこなしていたら、その後は「余裕ができた」という。
すっかりチームの顔としてマネージャー業も板に付いた9年目からは4年間、日本代表のマネージャーも兼務。日本女子の躍進を支え、2016年にはリオデジャネイロ・オリンピックにも出場し、チームのベスト8進出に貢献した。
マネージャーに必要なのはバスケットが好きなことと先を見る力
山﨑は、現在のWリーグのチームの中で一番キャリアが長いマネージャーだ。そんな彼女に全国で頑張っている中学、高校、大学生マネージャーたちにアドバイスを聞くと、こんな答えが返ってきた。
「まずはバスケットボールが好きであることが一番。それに加えて、先を見る力があるといいと思います。仕事を頼まれた時に頼んだ人が『そこまでやってくれたんだ、ありがとう』というぐらい2つ、3つ先のことまでやることは、私も心掛けています」
山﨑自身、モットーとしているのは現在の横浜ビーコルセアーズのヘッドコーチであり、かつてJX-ENEOSのアソシエイトコーチを務めていたトム・ウィスマンからの『If you think you can,If you think you can’t ,either way you are right.』という言葉。
入団1年目、ウィスマンを車で送り迎えしていた時に話した言葉で、「些細なことだったんです。私が大きい車を運転するのは苦手だから小さい車がいいというようなことを話した時、『何事もやればできるよ。できないと思ったらできないんだよ』と言われて。まだ18歳だったし、当時の私にはとても響きましたね」と言う。
「JX-ENEOSは勝たないといけないチーム。その極限状態の中でみんな頑張っているので、そういった選手たちが進むべき道を示したい。今では親みたいな感じですよ」と、常にエネルギッシュに仕事をこなす山﨑。今シーズンも後半戦に突入したが、選手を鼓舞するその声は、2020年もまたどこかの会場で響き渡っているだろう。
小松佳緒里マネージャー
全中、インターハイ、ウインターカップ出場も大学3年で選手生活にピリオド
父がミニバスのコーチだったこともあり、「遊び感覚で始めた」バスケットだが、小松のキャリアは輝かしい。
中学時代には全国大会に出場しベスト16。そして高校でも地元・秋田の名門である湯沢翔北高校に入学すると下級生の頃から主軸を担い、司令塔としてインターハイ、ウインターカップに出場した。そしてその実力を買われて当時は関東女子リーグ2部だったが年々力を付けてきていた東京医療保健大学の門を叩く…。
だが、2度に渡るアキレス腱断裂という大ケガが影響し、大学3年生からはマネジャーに転向。当時のことを「3人いたマネージャーが卒業するということで、誰かチームからマネージャーを出さないといけない状況だったんです。そのタイミングと私のケガからの復帰とが重なって。私自身、約2年間リハビリをしていた中で、選手としてみんなと混ざって練習を続けていく自信がなかったんですね。それならマネージャーの方がチームに貢献できるのかなと思って決めました」と言う。
もちろん、この決断は簡単なことではなかった。本人は「スッと決まったところはあった」そうだが、両親や高校の恩師などこれまでお世話になった関係者ともしっかりと相談した上で決めたという。加えてこんなエピソードもある。
東京医療保健大学は実力派選手がそろい、チーム内での競争は激しい。そのため、小松個人が大学での目標に掲げていたのが「4年の間で代々木第二体育館のコートでプレーすること」。しかし、「1年生の新人戦でいきなり試合に出してもらえたんです。会場が代々木第二だったので、その時に目標が達成してしまって(笑)。その後にケガをしてという流れだったので、選手としてはやり切ったところもありました」(小松)
管理栄養士を目指したが名門チームでのチャレンジを選ぶ
大学3年からマネージャーになった小松だが、実は大学卒業後は「9割方、地元の秋田で働くことを考えていた」という。管理栄養士の資格取得が可能な東京医療保健大学で実際に国家資格を取り、それを生かした職に就こうと思っていた矢先、JX-ENEOSのマネージャーの話を受ける。「JX-ENEOSはトップチームなので、責任重大、荷が重すぎると思っていた」が、大学や高校の恩師からの「チャレンジしてみたら」という言葉が背中を押した。
そんな小松は今シーズンで3年目。JX-ENEOSの選手たちにのことを「勝つことしか考えていないというか、全てにおいてポジティブなんですよ。負けたらどうしようという話がいい意味で一切ない。暗い雰囲気がないんです。私はどちらかというとネガティブな方なので、みんなに引っ張られてます」と言う。
大学時代には映像を使ったスカウティングも行っていた小松。現在もシーズンに入ると、マネージャー業の傍ら、相手のスカウティングなども行っている。
「みんなトップの意識というか、完璧を表現する選手たちです。私が適当な仕事をしてはいけないなという思いはありますね」と小松。
今は、ベテランの山﨑とタッグを組みながらマネージャーとしてのキャリアを積んでいる最中。「ダンさん(山﨑)は本当に尊敬してます。私にないものを持っていて芯がある人だと思います。コーチたちに対してもしっかりと意見が言えるし、強い女性だなと。ただ、憧れていても私の性格は今更変えれないので(笑) 私は私らしく選手をサポートすることのできるマネージャーになりたいと思っています」と、最後は笑顔で今後の思いを語ってくれた。
取材・文=田島早苗
写真=新井賢一