2020.10.07

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.9】南川佐千子「生活のすべてをバスケに捧げて獲得した銅メダル」

5大会連続でパラリンピックに出場し、シドニーでは銅メダルを獲得した南川佐千子[写真]=JWBF / X-1
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。2011年よりパラリンピック競技を中心に、国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドン、16年リオ、18年平昌、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

インタビューした選手に「現在成長著しい選手」「ライバルだと思っている同世代選手」「ベテランから見て将来が楽しみだと思っている若手」「若手から見て憧れているベテラン」などを指名してもらい、リレー方式で掲載するこの企画。車いすバスケットボール選手の個性的なパーソナリティーに迫っていく。

文=斎藤寿子

 過去に2度、パラリンピックで銅メダルを獲得している車いすバスケットボール女子日本代表。その2度目、2000年シドニー大会での銅メダルメンバーの一人が、南川佐千子(九州ドルフィン)だ。Vol.8で登場した西田比呂華(九州ドルフィン)がずっと尊敬し、憧れてきた存在でもある。1988年ソウルから04年アテネまで、パラリンピックに5大会連続で出場した車いすバスケ界のレジェンドの一人、南川にインタビューした。

衝撃だった「車いすスポーツ」と「女子日本代表」

 小学4年の時に事故によって脊髄損傷となり、車いす生活となった南川が初めて車いすバスケを見たのは、中学3年の時。地元チームの試合を見て、大きな衝撃を受けた。

「当時(70年代半ば)は、車いすで街に出る人を見かけることはほとんどなかった時代。スポーツをするところなんて見たことがありませんでした。だから初めて車いすバスケの試合を見た時は、とにかく驚きました。そして『自分もこんなふうに活発に動いてみたい!』と思ったんです」

 高校に入るとすぐに地元のチームに加入した。さらに「上を目指したい」と思うようになったのは3年の時に初めて観戦に行った日本選手権がきっかけだった。当時は女子の競技人口は少なく、女子チームは全国に2つほど。そのため、現在の日本女子選手権(18年より皇后杯を下賜)はなく、男子の日本選手権に付随するかたちで会場の一角を借りて、全国から集まった女子選手が東西のチームに分かれて試合をするだけだった。

 それでも、地元では男子の中に交じって練習していた南川にとっては、女子だけのチームが全国にあること、そして自分よりも格段に巧い女子選手たちのプレーに感銘を受けた。

「その時は、女子日本代表が初出場で銅メダルを獲得した1984年のパラリンピック(当時の大会名は「国際ストーク・マンデビル大会」)の2年前。日本国内でも女子の代表活動に力を入れ始めて間もない頃だったと思います。目の前でプレーしている選手たちの中に日本代表候補がいると聞いて、『これが代表のプレーなんだ。私もいつかこの中でやってみたい』と思いました」

 翌83年に愛知県の大学に進学した南川は、レベルアップを図るために坂道を走ってスタミナやパワーをつけるなど、トレーニングの日々を送った。すると2年時からは日本代表候補の合宿に呼ばれるようになり、国際大会にも出場。そして88年、社会人2年目の時、自身初めてのパラリンピックの舞台に上がった。しかし、結果は予選敗退。南川自身もまったく力及ばずだった。

南川は日本で女子代表が活動を始めた頃を支えたレジェンドの一人[写真]=JWBF / X-1

“4度目の正直”でつかんだ銅メダル

 帰国後、南川は決意を新たに、バスケに取り組んだ。フルタイムでの仕事をやりくりしながら、週6日でトレーニングをし、すべての面でのレベルアップを図った。さらに地元の九州を拠点にした女子チーム「九州ドルフィン」を設立。世界に勝つためには、女子全体の底上げが必要と考えたからだった。

 加えて、代表合宿にもすべて参加していた。当時は現在のような協会からの助成はなく、すべて自己負担だったため、九州に住む南川にとっては、主に東京や大阪で行われた合宿に参加するための費用を工面するだけでも大変な苦労だった。

「給料のほぼすべてを選手活動に費やしていました」と南川。特に今のような割安チケットがなかった時代の東京と九州の飛行機での往復は高く、選手たちにとっては大きな負担となっていた。

 それでも「世界に勝ちたい」という一心で、南川たち女子日本代表は、まさに生活のすべてをバスケに費やした。しかし、92年バルセロナ大会、96年アトランタ大会も予選敗退を喫した。

 そうして迎えた00年シドニー大会。南川にとっては4度目のパラリンピックだった。当時はすでに結婚して二児の母親となっており、実家からのサポートを受けながら代表活動を続けていた。

「集大成の気持ちで」臨んだ同大会、チームは予選を突破。準決勝で敗れはしたものの、3位決定戦ではオランダにダブルスコアに近い差で快勝し、銅メダルを獲得した。南川はコート上で試合終了のブザーを耳にした瞬間、喜びで震えが止まらなかったという。

 4年後のアテネ大会を最後に、第一線を退いた。しかし、それ以降も九州ドルフィンのメンバーとして残り、日本の女子車いすバスケ界の発展に寄与してきた。

「車いすバスケは、私に社会に出るきっかけを与えてくれ、たくさんの人と出会わせてくれました。バスケのおかげで、精神的にも体力的にも力をつけることができたんです。そんなバスケとたくさんの人に関わってほしいと思っています」

 今では時おり学校で講演活動もしている。これからも、車いすバスケの普及に力を注いでいくつもりだ。

メダリストの南川は今も車いすバスケの普及・発展に注力している[写真]=JWBF / X-1

(Vol.10では、南川選手が注目している選手をご紹介します!)

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