2019.07.19
惜しまれながら昨シーズン限りで現役生活にピリオドを打った吉田亜沙美。改めて言うまでもなくJX-ENEOSサンフラワーズ11連覇の立役者であり、女子日本代表を世界のトップレベルに押し上げた功労者だ。今回、彼女のバスケ人生を振り返るロングインタビューに成功。全3回でそれをお伝えしていく。
第2は東京成徳大高校時代やJX-ENEOSサンフラワーズ入団時と10代後半の頃を中心に様々な人の支えの中で吉田亜沙美が選手としても人としても成長していった様子を本人たちの言葉を交えながらお伝えする。
取材・文=田島早苗
吉田は、心の底からバスケットが大好きだ。
それは、目をキラキラと輝かせながらプレーしていた姿からも感じられるところだが、「本当に楽しくて、学校に行っても早く練習がしたいと思っていました。練習に行きたくない、嫌だと思った日は一日もなかったですね」と、高校での3年間を振り返る言葉からも伝わってくる。
「練習メニューが曜日ごとに異なっていたのが楽しかったし、下坂先生に教えてもらうのも楽しかったです」と、吉田にとっては下坂須美子コーチの存在も大きかったよう。
実際、下坂コーチも「曜日でメニューを変えていたのが合っていたのかもしれないですね。それと、練習には遊びの要素を入れていたこともあるのかな。アウトナンバーで攻めるという練習も多かったから“読む”ことができた。お互いに駆け引きをしながらプレーをするのが楽しかったのかもしれないですね」と言う。
さらに吉田については、「よく練習前に1対1で遊んでいました。そういった光景は、男の子では見るけれど、女の子ではあまり見ない。本気でやっているというよりは、笑いながらやっていましたが、その中から何かヒントを得ていたのかもしれません。遊びの中で試したものを実際の練習に取り入れているようなところはありましたから」と、当時のエピソードも語ってくれた。
長きに渡り東京成徳大高校を指導していた下坂コーチは、大学やトップリーグ(現在のWリーグ)で活躍する選手を多く輩出。近年では吉田と大﨑佑圭(旧姓:間宮)のオリンピアンに加え、藤井美紀(元シャンソン化粧品シャンソンVマジック)、山田茉美(元デンソーアイリス)に山本千夏、篠原恵(富士通レッドウェーブ)や石原愛子(JX-ENEOS)といった個性豊かな選手たちの名前が並ぶ。
鳴り物入りで高校に入学した吉田は、1年次からスターターを担い、インターハイ、国体、ウインターカップの準優勝に貢献。そして本格的に正ガードとなった2年生では決勝へ進んだのはインターハイのみだったが(準優勝)、3年生の時にはインターハイで悲願の高校日本一に。その後の国体(東京都代表)でも優勝を果たした。
個人でも2年生で女子ジュニア日本代表(現U18女子日本代表)、3年生では日本代表に選出され、世代のトップに君臨。ダブルクラッチにバックビハインドパスなど華やかなプレーを含め、ひと際輝くオーラを放っていた。
感情豊かな吉田は大の負けず嫌いでもある。そのため、試合ではどうしても喜怒哀楽がストレートに出て、誤解を招くこともあった。
「本当にふてぶてしかったですよね(笑)。高校1、2生の頃の試合は、今、見てほしくないですもん」と吉田は当時のことを語る。確かに、10代という若さ故に感情をコントロールができず、それが態度に繋がることもあった。だがその一部は、自分自身の不甲斐ないプレーへの怒りでもあったのだが…。
そんな吉田に下坂コーチは、礼儀といったことに関しては厳しくしながらも、型にはめることなく、個性を生かしながら指導。その環境の中でスケールが大きく、発想豊かな吉田のプレーは磨かれていった。
下坂コーチは吉田のことを「勘違いされがちだったけれど、あの子は本当に練習を真面目にやる。キャプテンになってからは先頭に立ってやっていましたね」と言う。
高校時代から会場をどよめかせるような派手なプレーを見せていたが、その前には必ずといていいほど、ディフェンスを頑張る、ルーズボールに飛び付くといった吉田の泥臭いプレーがあった。また、トリッキーなプレーの裏には基本に忠実な動きがあり、それは日々の練習を本気で取り組んでいたからこそ身に付いたものだ。
それでも、これまで多くの選手を見てきた下坂コーチは、「抜きん出たいい選手だとは思いますが、卒業生の中には他にもいい選手は何人かいましたね」と、冷静に語る。だが、「彼女には天性の運動能力とセンスがあったと思います。それと、意外とみんな分かっていないけれど努力家。見えるところではやらない、陰の努力家ですね」とも語った。
吉田の性格を理解し、彼女にバスケットの楽しさを教えた恩師は、最後に「指導者を目指すと言っていましたが、向いているかどうか今は分かりません。でも、教えるということは我慢が必要で、その我慢ができるようになれば、いい指導者になるかもしれませんね」と、下坂コーチらしい愛情ある言葉でエールを送った。
吉田は自身のバスケット人生を振り返った時、「どんな時も周りの環境が良かった」と言う。
「(ミニバスで強豪チームの)中山MBCに入れたのも父が(コーチの)小鷹勝義さんと同じ京北高校の出身で繋がっていたから。それで中学から成徳に声を掛けてもらって。その後JOMO(現JX-ENEOS)にも入れた。楽しいと思わせてくれたコーチたちをはじめ、恵まれた環境の中でバスケットができて本当に幸せでした。何かが少しでも違っていたらまた違った人生を送っていて、オリンピックにも出れていなかったかもしれないですから」(吉田)
そして彼女の口からは、JX-ENEOSと日本代表で指導を受けたヘッドコーチたちの名前が次々と挙がり、さらに先輩、後輩、同級生といったチームメイトたちへの感謝の言葉があふれた。
吉田に影響を与えた人は少なくない。その中で厳しさと優しさを持ってアドバイスを送ったのが吉田がJOMOに入団当時マネージャーだった成井千夏だろう。
成井はジャパンエナジー(現JX-ENEOS)に選手として入団。同期には大神雄子(現トヨタ自動車アンテロープス・アシスタントコーチ)らがいる。しかし、膝のケガもあり3シーズンで引退するとマネージャーに転向。それから3年後に吉田が新人としてチームに加入し、成井が勇退するまでの9シーズン、2人はJX-ENEOSと日本代表とでともに戦った。なお、現在は日本代表に復帰し、専任マネージャーとしてチームを支えている。
その成井は、吉田が1年目の時をこう振り返る。
「高校の時の彼女の試合をちゃんと見たことはなかったのですが、“やんちゃ”という噂を聞いていました。だからどんな子なのかなと思っていたのですが、入ってきたら口数は少ないけれど、誰よりも人を見て、誰よりも雰囲気を見て、誰よりも気が利くんです。これはすごい選手だなと感じました」
ただ、まだ18歳の吉田にはやんちゃな面も残っており、それを実際に見た成井は「せっかく一流のプレーをするのに、やんちゃなままだともったいないなと思いましたね。例えば、1年目の選手がやる仕事ってどのチームもあると思うのですが、彼女はそこでのミスが無かったんですよ一度も。それっていい意味で人を見て行動していて、観察能力が高いということ。だからポイントガードとして味方の特長をつかんでいいパスが出せるんだとは思うんですよね。やっぱり行動ってプレーにつながっていると感じるんです。だからこそ、プレーが一流なのだから人としても一流になってほしいと思って厳しく言うようにしました」と言う。
人に何かを注意したり厳しく言ったりすることは労力や神経も使う。それでも吉田の真面目さ、きめ細やかさ、そして将来性にいち早く気づいた成井は、「噂って悪いことしか流れないんですよ。それだと彼女が損をしてしまう。日本を背負っていく選手になるのなら、早めにアドバイスした方がいいかなと思ったんです」と、トップ選手としてのあるべき姿勢を彼女なりに伝えていったのだった。
10代では周りのアドバイスに耳を傾けながら人としても成長していった吉田。JX-ENEOSや日本代表の主力として第一線で奮闘した20代では、「ケガした時とキャプテンになった時が自分の中で変わった時だと思います」と2つのターニングポイントを挙げる。
ケガは、2013‐14シーズンのシーズン途中で負った膝のじん帯断裂。人生初の大ケガで、長期の戦線離脱を余儀なくされた。そして復帰後、2015-16シーズンからは引退した先シーズンまでの4季、吉田は女王軍団のキャプテンを務めた。
「ケガをした時、ベンチからみんなの試合を見ていて感動したんです。こんなすごい選手たちと一緒にバスケットができているんだって。それにベンチメンバーが試合に出たくても出られない中でいろんな気持ちを押し殺して一緒に戦っているというのを知れたのは大きかったですね。
キャプテンになってからは、もう自分のことだけでなくなったなというか。嫌なことも言わなくてはいけない時もあるけど、チームのためになら、嫌われ役もやろうと思ってやっていました」と、語る。
姉の沙織は今回の取材で「JX-ENEOSというチームが亜沙美をキャプテンにしてくれなかったらあそこまで成長しなかったかもしれないです。いろいろあっての彼女で、ここまで来られたのも彼女だけの力ではないと感じています」と言う。
周りのサポートを力にして世界のトップ選手となった吉田。紆余曲折を経ながら歩みを進めていった稀代のポイントガードは、感謝の思いを抱きながら2019年3月3日、現役生活にピリオドを打った。
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