2019.07.18
惜しまれながら昨シーズン限りで現役生活にピリオドを打った吉田亜沙美。改めて言うまでもなくJX-ENEOS11連覇の立役者であり、女子日本代表を世界のトップレベルに押し上げた功労者だ。今回、彼女のバスケ人生を振り返るロングインタビューに成功。全3回でそれをお伝えしていく。
第1回はバスケ人生に絶対欠かせない存在、姉の沙織(現在は上吹越沙織)さんとのエピソードを交えて振り返っていく。ここでは自身が初めて明かす背番号12の理由も含まれる。その貴重なインタビューを早速お届けしよう。
取材・文=田島早苗
「亜沙美が生まれた時、私は3歳だったので、あまり記憶はないのですが、何かと妹の面倒を見たがっていたみたいです。でも小学校に入ったらほぼ毎日ケンカ。テレビのリモコン争いとかよくある姉妹のケンカですけどね(笑)。何をするにも競争みたいなところはありました。その延長で私が東京成徳大学高校に入るのと同じタイミングで妹が(付属の)東京成徳大学中学校に入ったこともあり、週に何回か中高で一緒に練習していた時なんかはもうバチバチ。先生からは『家に帰ってからケンカして』と言われていました(笑)」
こう懐古するのは、吉田亜沙美の姉である沙織。
今年3月に引退を表明した吉田の実績は改めて語るまでもないだろう。東京成徳大学高校を卒業しJX-ENEOSサンフラワーズに入団。以降、13シーズンでWリーグの優勝12回。皇后杯では10回を数え、個人タイトルは数えきれないほど獲得した(※下記参照)。
日本代表では、高校3年生の17歳で公式戦デビュー(東アジア競技大会・2005年)。以降、膝のじん帯断裂で戦列を離れた2014年以外は、2017年のFIBA女子アジアカップまで、日の丸を背負い続けた。2009年の女子アジア選手権(現女子アジアカップ)でガードながら大会のリバウンド王、翌年の2010年の女子世界選手権(現女子ワールドカップ)ではアシスト王にも輝いている。
生まれも育ちも東京の吉田は両親がともにバスケット経験者。子供の頃は良く、父のクラブチームの試合や練習などについていったという。余談だが、当時を知る人によると、試合会場などではよく、姉の沙織と手をつなぎ、妹の亜沙美を肩車しながら父・康行さんは歩いていたそうだ。
その両親の下で姉がミニバスケットを始めると、「私のマネをするのが大好きだった」(沙織)という妹も当然のようにバスケットを始める。そして妹は、姉の背中を追いかけた。
吉田はしばしば、尊敬する選手、目標とする選手という問いに姉・沙織の名前を挙げていた。それは「努力し続ける姿勢を見てきた」から。
東京成徳大学高校で全国大会にも出場した沙織は、高校卒業後、バスケット界の名門・日本体育大学へと進む。だが、実力者が揃うチームの中で主力の座を射止めることは簡単なことではなかった。
「姉は大学時代、下級生の頃はAチームとBチームを行ったり来たりしていたんです。Aチームで練習していたのに翌日からはBチームとか。それで泣いていたのも知っていました。だけど、それでも姉は朝早くから自主練習をしに行くんです。それは高校の時からで、誰よりも早く体育館に行っていた。どんな時も努力だけは続けていたんです」と、吉田は当時を振り返る。
そんな努力の人である沙織は大学3年生の頃から出場機会をつかむようになる。そしてその姿は、吉田にある強い思いを抱かせた。
「姉が出ている試合を始めて見に行った時、高校からWリーグに進む私は、姉以上に努力をしないと通用しないなと改めて思いました。その時に姉が付けていた背番号が6番。だから姉の倍頑張るという意味で(JX-ENEOSでの)背番号を12にしたんです」(吉田)
実は吉田、これまで背番号12の本当の理由を語ってこなかった。ルーキーイヤーの時から「秘密」と濁したまま。東京成徳大学高校で1、2年生の時に付けていた8番と3年生の時に付けた4番を合わせた『8+4=12』も理由の一つだったこともあり、本人もこれを公言していたのだ。
「初めて話しましたね。確かに成徳時代の背番号から12にしたのも理由の一つでしたが、本当の理由は姉。でもこれは言いたくなくて、それこそ姉にも言ってなかったです」と、吉田は言う。
沙織はその後、大学4年生の時にはキャプテンとなり、プレーのみならず、リーダーシップも発揮してインカレ優勝を達成。大会では大車輪の活躍を見せ、文句なしで最優秀選手賞を受賞した。そしてWリーグの日本航空JALラビッツに入団。3シーズン所属した後、当時WIリーグのエバラ(現・東京羽田ヴィッキーズ)に移籍し、1シーズンを戦い、現役を引退した。
「私が彼女に負けないところは”しつこさ”なんです」と、沙織は言う。その思いはこうだ。
「誰にでもできることってみんないつかやらなくなるんです。例えば声を出すとかこととか、練習での決まりごとをコーチが見ていないからって手を抜いたりとか。でも、それは私のポリシーに反するんですね。だから、そういうところはすごく頑張っていました。
聞いた話なんですけど、父は高校時代、3メンの練習になると、先輩たちに『一緒の組になって』と言われたそうなんです。それは父ならどんなパスでも絶対にキャッチしてくれるから。そうすると、ペナルティーでもう1回走らなくていいからなんです。そういった泥臭いプレーを大事にしていた父だったので、自分もそうでありたいなと思っていました。クラブチームの試合でも、ルーズボールを頑張っている父の姿を見て、明らかにうちの父はみんなと違うなと思っていましたからね」
FIBA(世界国際バスケット連盟)が引退の報を公式サイトにアップするほど、世界トップクラスのガードにまで成長した妹・亜沙美。ダブルクラッチや針の穴に糸を通すようなパスなど派手なプレーも印象に強いが。彼女もまた粘り強いディフェンスやルーズボールにリバウンドといった数字に残らないプレーを身上とする。
泥臭く当たり前のことを当たり前にやり続ける。そのDNAは父から姉、そして妹へと脈々と受け継がれていたものだったのだ。
「お互いのことを認めあったり、応援し合ったりというのは、私が大学に入って寮生活になってから。少し距離ができたことで仲良くなった気がします。
私が日本航空時代は、妹がWリーグの決勝で戦っているのをどんな立場で見ればいいのかなという思いはあったけれど、私が引退してからは、姉というより、もう親ですよね(笑)」と、姉は誰よりも近くで妹を見てきた。だからこそ、引退することを告げられた時、「”もういいんじゃない”という言葉しかなかったですね。止めようとは思わなかったです」と言う。
「私の中で勝手にそろそろだろうなという感じはありました。彼女が一番動けて、輝いていた頃をずっと見てきたし、同じWリーグの選手としても見ていたので、膝のケガや年齢の影響で思うようにできなくなってることが私は余計に分かるんです。だからきっと亜沙美の引退は、亜沙美が自分のことを納得いかなくなった時なんだろうなとは前から感じていました。私が感じているということは本人はもっと感じていて、消化しきれない何かがあったのではないかなと。それでも踏ん張ってオリンピックに行って達成感も感じた。だから引退の言葉を聞いた時は、”もういいよ”って思いましたね」(沙織)
これからは指導者としての道を進む妹。引退後もイベントに呼ばれたり、JBAアンバサダーという大役も受けたりなど、ゆっくりもしてられないようだ。そんな第2のバスケット人生をスタートした妹に、沙織は姉らしいメッセージを最後に送ってくれた。
「何かを我慢したり、自分が違うなと思うものを無理にやってほしくないとは思っています。あなたらしく進んでいけばいいんじゃないと。今までいろいろと我慢してきたこともあっただろうから、私ぐらいは『好きにやっていいよ』と言ってあげたいですね、周りの人が止めたとしても」
※吉田亜沙美/Wリーグ獲得タイトル
プレーオフMVP5回、レギュラーシーズンMVP1回、ベスト5・5回、アシスト4回、スティール1回、新人王、ベスト6thマン1回
2019.07.18
2019.07.17
2019.07.16
2019.07.11
2019.07.09
2019.07.02