2023.06.24

“名将”佐藤久夫コーチを偲んで(後編)「『絶対に自分が決める!』というメンタリティーを教わりました」(安藤誓哉)

2009年には畠山俊樹、高田歳也、安藤誓哉の3ガードを軸に、創部5年目で初の日本一 に輝いた [写真]=小永吉陽子
スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者に。国内だけでなく、取材フィールドは海外もカバー。日本代表・Bリーグ・Wリーグ・大学生・高校生・中学生などジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回る。

■「引退するまで江戸っ子」。久夫先生にそう誓いました…安藤誓哉島根スサノオマジック/明成高校OB)


 高校時代、僕は久夫先生から「東京の都会っ子じゃなくて江戸っ子になれ」「江戸っ子魂を見せろ!」と何度も言われてきました。最初はピンとこなかったのですが、東京出身の僕に「リーダーシップを持って、侍のように自分で責任を持って攻めろ」ということを伝えていたのだと思います。「絶対に自分が決める」とメンタリティーは今も大事にしていることで、そのプレースタイルは明成で確立しました。

 まず入学してすぐに、ドライブが好きでガンガン攻めたかった自分に対し、「外からシュートを打て」と言われました。ドライブができても「誓哉シュートだ!」と注意されるのです。そのうち、2年になったら3年の(畠山)俊樹さんがいいパスをくれるので、スリーもミドルも入るようになっていました。3年生になって自分がエースになった時には、ドライブもシュートも見極められるようになって、オールラウンドに点が取れるようになっていました。先生はドライブが得意だった僕に、アウトサイドシュートを引き出してくれたのです。

 一番大きな経験は、久夫先生のもとで、U18代表として戦ったことです。これが高校時代の仕上げになり、シュート、ドライブ、ドリブルで運ぶことが身について、今のプレースタイルになりました。あのU18での経験があったからこそ、「プロになりたい」「バスケでいろんな世界を見たい」という意志が固まりました。

 また、「人の目なんて気にしないで自分を貫け」と言ってくれたことも忘れません。「周りはお前を見ているんだ。お前が動かないと誰も動かない」とすべてを託してくれたので、周りの目なんか気にならないようなメンタルが持てるようになりました。海外でプレーをして感じたのは、久夫先生の言うことは当たり前だったということです。人の目なんか気にしないで、責任を持って自分のやるべきことに集中するのは、トッププレーヤーならばやっていることでした。明成でやってきたことは当たり前の世界なんだ、久夫先生の言っていることは正しいんだ、と思うことばかりでした。

 今日、(通夜で)先生の顔を直接見て、改めていろんなことを思い返しました。僕の場合は戦う闘志が出せなくなったら終わり。僕に戦うメンタリティーを叩き込んでくれたのは久夫先生なんだと、原点を思い出すことができました。

 高校生の時、久夫先生は「俺の言っていることが今はわからなくても、40歳になった時にわかればいい」と言っていました。あと10年、先生が言っていたことを考えながらプレーします。先生の棺に入れる色紙のメッセージには『引退するまで江戸っ子』と書かせてもらいました。

■「今に満足するな」という教えを胸に刻んで頑張ります…納見悠仁川崎ブレイブサンダース/明成高校OB)

八村塁納見悠仁を中心にウインターカップ3連覇。「今に満足するな」と叱咤激励を受けた3年間だった [写真]=小永吉陽子


 久夫先生に学んだことはたくさんありすぎて、一つではとても言い表せないのですが、その中でも今に生きていることは、戦うメンタリティーを身につけたことです。

 僕は先生にものすごく怒られた選手だったので、高校時代は「何クソ、絶対に見返してやる」と反骨心を持ちながら練習していました。そういう、先生との一つひとつのやり取りや積み重ねが成功体験として自分のパワーになり、そこで戦うメンタリティーを身につけたからこそ、プロでもやれているのだと思います。今思えばですけど、先生は僕の性格がわかっていて、先生の熱意に負けないように練習で戦うことで「もっと強気になれ」と引き出してくれたような気がしますね。

 名言がありすぎる先生ですけど、「明成の3年間が頂点ではないぞ。ここで満足してしまったらダメだ。これからの人生のほうが長いんだから常に上を目指せ」ということは、高校時代によく言われました。僕らの代はウインターカップで3連覇をしたので、特にそう言ってくれたのだと思います。5月末にお見舞いに行った時もその話をしてくれて、「今に満足するな。もっと上を目指せ」と言ってくれました。

 高校時代があるから今があるのは間違いありませんが、高校時代が頂点ではありません。大学でも今も、ウインターカップ3連覇のことはたくさん聞かれて、それは成功体験として大切にしている原点ですが、現状に満足しないということは、今でも自分に釘を刺していることです。ユースの選手や子供たちに指導する機会があるのですが、そこで僕が教えたいマインドも同じで、「今がピークじゃないから、少しずつでいいから毎日レベルアップしていこう」と伝えています。

 めちゃめちゃ怒られてきたので先生に面と向かって言ったことはないですが、久夫先生のことが大好きですね。僕の人生を大きく変える分岐点を作ってくれたのは、間違いなく久夫先生です。バスケにおいても、人生においても。これからも「今に満足するな」という先生の言葉を胸に刻んで頑張ります。(八村)塁とも連絡を取っていて、「OBとして僕たちにできることをしよう」という話はしています。OBたちで明成バスケ部を支えていきたいです。

■選手一人ひとりに真剣に向き合い、愛情を注いでくれた恩師…山﨑一渉(ラドフォード大学/仙台大明成高校OB)

写真撮影が趣味だった佐藤コーチがカメラを向けると、選手たちは自然と笑顔になった。山﨑一渉、菅野ブルースらが卒業直前、佐藤コーチが撮影したポートレート [写真]=佐藤久夫


 明成のOBは共通した意見だと思うのですが、高校3年間で久夫先生に何を学ぶかといったら、一番は心の部分だと思います。2年のウインターカップ予選前の話ですが、先生が僕にブチ切れて、血圧が上がってしまったのか、フラッと倒れたことがありました。みんなで心配になりながら先生を支えたのですが、先生はフラフラしながらも怒るのをやめないで、「お前のためなら死んでやる!」と僕に言ったんです。その時はびっくりもしたのですが、ここまで自分と向き合ってくれる人と出会えたことがうれしくて、練習中なのに泣いてしまいました。

 なんでそこまで怒られたかというと、2年の時の自分はどこか弱気だったので、変わらなくてはなりませんでした。先生は自分のことを期待してくれて「自分でやれ」「お前がやれ」と責任を持たせてくれたんです。

 僕があまりにも怒られていたので、チームメートの紀人(山崎、中央大学)からは「先生、一渉のことめっちゃ好きだよね」と言われましたが、先生は紀人のこともよく怒っていました。先生は誰に対しても向き合い方が真剣なんです。逆に自分が先生くらいに人のことを怒れるだろうかと考えたら、愛情がないとできないと思いました。先生は僕らに無償の愛を注いでくれたのだと思います。だから、たまに褒められると、すごくうれしかったですね。

 技術的なことで言えば、先生に習ったことで、アメリカで通用したことはたくさんあります。先生に口を酸っぱくして注意された体の使い方とか、フィニッシュのステップワークとか、ちょっとした細かいことが、アメリカでは見過ごされていたりします。それだけ、向こうの人たちはフィジカルやスピードで押し切れてしまうのかもしれませんが、逆にこっちが細かいことを疎かにしなければ、対抗できることもあると感じました。これは明成にいた時は気づけなかったことでした。先生のバスケはすごいとは思っていたのですが、何がすごいのかはアメリカに行って具体的にわかった気がします。

 憧れの明成高校で、憧れの8番をつけさせてもらい、久夫先生に学べた3年間は僕の宝物です。5月中旬に先生のお見舞いに行った時、「お前なら大丈夫」と言ってくれたその言葉は忘れません。僕の活躍が先生のところに届くくらい頑張ります。

取材・文=小永吉陽子

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