2023.06.22

“名将”佐藤久夫コーチを偲んで(中編)「仙台の地にバスケを根付かせた久夫先生。僕が受け継ぎます」(志村雄彦)

志村雄彦を軸にウインターカップ連覇した仙台。志村の引退式では涙を見せて労いの言葉を贈った佐藤久夫コーチ [写真]=B.LEAGUE
スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者に。国内だけでなく、取材フィールドは海外もカバー。日本代表・Bリーグ・Wリーグ・大学生・高校生・中学生などジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回る。

■「人生の縮図」が詰まった高校3年間を送りました…志村雄彦仙台89ERS社長/仙台高校OB)

志村が球団社長に就任した後も、互いに宮城県内のバスケを盛り上げたいと、恩師と教え子の交流は深く続いていた [写真]=小永吉陽子


 久夫先生、僕たちを日本一の舞台に連れて行ってくれて、本当にありがとうございました。毎日毎日、あきらめずにチャレンジして、日本一の光景を見させてもらったことは決して忘れません。

 先生と日本一を追いかけた毎日は『人生の縮図』のような3年間でした。よく先生には「練習は試合を想定してやりなさい。試合は練習のようにやりなさい」と言われて、毎日必死についていきましたが、その意味が優勝したときにわかりました。(ウインターカップが開催される)東京体育館では、仙台高校の体育館で練習をしているように試合ができましたから。また、いい時も悪い時もやり続けて、やり遂げた先に目標が達成できるということも教えてもらいました。

 高校時代、先生にあんなに怒られたのに、今は仙台高校の体育館でまたみんなと一緒にバスケをして、先生に怒られたいんですよ。不思議ですよね。先生が亡くなってからOBたちと話をしたのですが、「先生にいろいろ聞きたいことがあるよね」って。20数年前、僕らが高校生の時、先生は何を考えながら指導していたのか、それが知りたいです。だから怒りたいですよ。「先生、僕らに会わずに逝かないでよ」って。最後まで宿題を出された感じです。それもまた、久夫先生らしいなと思いますけど……。今は先生にとても会いたいです。

 久夫先生と僕らは、いつまでたっても恩師と教え子。僕らは先生が教えてくれたことを一生追いかけて成長していくのだと思います。先生は僕と会うたびに「お前は、将来は指導者になるという俺との約束を守ってないぞ」と言いますが、今度は約束を守ります。僕はナイナーズを日本一にして、仙台のバスケを盛り上げていきます。それが、仙台の地にバスケットボールを根付かせてくれた久夫先生への恩返しです。

■久夫先生と明成バスケ部を作り上げた挑戦は苦しくも楽しかった…伊藤駿秋田ノーザンハピネッツから富山グラウジーズへ移籍/明成高校OB)

2005年に1年生15人でスタートした明成バスケ部。3年間キャプテンを任された伊藤駿(前列右から3番目)[写真]=小永吉陽子


 僕にとっての久夫先生は、絶対的に「心中できる人」。明成での3年間の経験があったからバスケットが向上し、人生観を学び、人としての基盤ができたと言えます。

 僕はめっちゃワクワクして明成に入部しました。僕が高校1年になる時、地元の仙台に明成バスケ部が立ち上がり、佐藤久夫先生というすごいコーチがやってきて、全国にセンセーショナルを起こすような強い高校ができることになって、その挑戦がすごく魅力的に思えたからです。特に自分は、小学生の時に仙台高校を見てその強さを知っていたので、久夫先生のもとで挑戦したい気持ちが強かったです。

 けれど、いざ入学してみると本当にキツかった。特に、1年生の時は逃げ出したいほどでした。1年生なのに3年生と試合をするわけですから、練習でも体力面でも相当追い込みましたし、追い込まれました。一番キツかったのはメンタルを削られたことで、先生にダメ出しをされても、1年生だけでは解決する経験値がなく、乗り越え方もわからなかったです。

 でも僕の中では「絶対にこの人と戦う。この人と一緒にこの学校を強くする」とぶれない覚悟があったので、怒られても見返すという信念で練習についていきました。実際、新しい部を作る挑戦は楽しかったです。だんだん強くなってチーム力がついていき、成長していくために色々な経験をさせてもらいました。あんなに苦しかったのに、楽しいと思えたことが、僕が明成を選択して良かったと思える理由です。

 僕は創部から高校3年間キャプテンをやらせてもらったのですが、「僕に任せてくれたんだ」とうれしかった反面、先生の求めるリーダー像のレベルが高くて葛藤していた思いが半分でした。そんなもがいていた中で、リーダーシップを執る人の姿勢でチームが変わるということを学んだので、大学でキャプテンやるときは「俺が引っ張っていく」と自信を持てるようになれました。

 だからですかね。先生が亡くなったことは悲しいのですが、今こうしてOBみんなで(献杯の席で)高校時代の思い出話ができるのは、当時めちゃくちゃ一生懸命もがいていたことが、いい経験だったと言えるから。僕は今、みんなが先生のことを笑って話しているのがうれしいですし、いい関係性だと思いますね。

 5月末、先生のご自宅にお見舞いに行きました。その時、『M』の文字が入った明成Tシャツを託されました。ご自宅のテレビのところに飾ってあったもので、それを僕にくれて「これをお前に託す。このTシャツをOBで繋いでいって、宮城県を、明成を強くしてくれ」と言われました。先生は最初からそのTシャツを誰かに託そうとしていたのか、それとも、Tシャツを見ながら復帰に向けて頑張ろうとしていたのか……。今となってはその思いはわかりませんが、きっと、Tシャツを見ながら、チームや選手の成長を願っていたのだと思います。

 僕自身は、これからもプロ選手としてやっていく覚悟を持っています。プロキャリアを続けることで、明成の選手たちにも刺激を与えられると思っているので、もう少し選手として頑張ります。そして、「OBで繋いで強くしていってくれ」という久夫先生との約束を守ります。

■「3つ先、5つ先の展開まで読め」。久夫先生に判断力を鍛えられました…石川海斗ファイティングイーグルス名古屋/明成高校OB)

石川海斗を軸とした2期生は小柄なチームだったが「高校生らしさは日本一」と佐藤コーチは選手たちをたたえていた [写真]=小永吉陽子


 僕は2期生なので、明成の歴史が始まる時に久夫先生と苦楽を共にできたことが、忘れられない思い出です。明成へは一般生で入部したのですが、そんな僕に久夫先生は「誰にでもチャンスはある」と言ってくれて、その言葉で頑張ることができました。チャンスは誰にでもあると言いながらも目先の勝利を優先するコーチもいますが、久夫先生って本当にチャンスを与えてくれるんですよ。練習を隅から隅まで見ていて、どんな選手の成長も見逃さない。僕らの代って小さくて無名な選手ばかりでしたが、それでも国体で準優勝できて、東北を勝ち抜いてオールジャパン(天皇杯)に出場できたのは、誰にでもチャンスをくれて成長できたからだと思います。

 先生に教わったことで今でも心掛けているのは、「3つ先の展開まで考える」ということです。ポイントガードの自分は「5つ先の展開まで読みなさい」と要求されていて、そのおかげで判断力がつきました。ただ、スピードあるプレーの中で判断力を身につけるのは時間がかかります。明成が冬に強いのは、そうやって考えてプレーするからで、冬になるにつれて理解力が高まるからなんです。

 僕は将来的にはコーチになりたいと思っていて、オフシーズンには個人的にクリニックをやっています。今年の2月に『オール明成』(※)の試合で久夫先生に会った時に「将来コーチになった時には、久夫先生に教わった判断力を若い選手たちに教えたいです」という話をしたのですが、先生はどう思ってくれたのかな。(※今年2月18日、新校舎と新体育館設立を記念して『オール明成』というイベントを開催し、歴代OBと高校生たちが記念試合を行った)

 久夫先生の性格上、いつまでも悲しんだりしたら怒られそうなので、これからも「久夫先生の教え子」というプレーを見せていきたいです。

取材・文=小永吉陽子

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