2024.05.02

【山脇明子のLA通信】Bリーガーの弟とともに…ニモ富士華が夢見る「一緒に日本でプレーできれば最高です」

日本でプレー経験のある父の手ほどきを受けてバスケを始めたというニモ富士華 [写真]=Fullerton Titans Athletics
ロサンゼルス在住。1995年に渡米、現在は通信社の通信員として、MLB、NBAを中心に取材を行っている。

 この春、カリフォルニア州立大フラトン校(以降CSUF)を卒業するニモ富士華は、大学バスケをスタートさせたフロリダ・インターナショナル大(以降FIU)1年生のときからスターターとして活躍し、4年生のときには大学通算1,000得点に到達。常にチームの中心選手として活躍してきたガードだ。

 父のジェシーJr.さんは、かつて日本でプロ選手としてプレーし、現役引退後は横須賀米軍基地内の軍メンバーによるチームのヘッドコーチを含め、多くのバスケ選手を育ててきたバスケットボールコーチ。そして弟は、Bリーグのシーホース三河に特別指定選手として所属しているニモ正義だ。母の英美子さんが優しく見守る中、弟とともに父の指導を受けてきたニモは、大学を終えても、その才能をさらに伸ばしていきたいと向上心を高めている。

 大学でのプレーを終えたニモに4月はじめ、5年間の大学バスケや家族のこと、そしてこれからについて聞いた。

インタビュー・文=山脇明子

大学生活は「バスケだけでなく、人生の学びも得た5年間でした」

――大学での5年間を終えて、今はどんな気分ですか?
ニモ とても楽しかったですし、バスケットボールだけでなく、人生の学びも得た5年間でした。どのように逆境を乗り越えるか、自らの決意と意志をどのように実際の生活の中に取り入れていくかについても学びました。またバスケットボールを通して、たくさんの人たちに出会うチャンスがありました。本当に幸せな5年間でした。

――大学2年生までプレーしていたFIUでは、1年生のときからスターター出場しており、あなたの大学キャリアに逆境があったとは思えません。
ニモ 一番辛かったのは、コロナの感染拡大により、いろいろなことが制限されたときです。私の家族はとても絆が強くて、家族から離れて暮らしている中でコロナ下にいることは、とても辛いことでした。あと、私がリクルートされたときのヘッドコーチが、1年目の前に解任になってしまいました。新たなコーチもとてもいいコーチでしたが、コロナの影響もあって、心から幸せな気持ちになることができませんでした。2年生を終えて転校したのは、辛かった日々に終止符を打って、新たな世界でやりたいと思ったからです。

 フロリダ州からカリフォルニア州に移ることになり、家族からもっと離れたことは、より辛かったですが、とてもいいチームメートに恵まれ、彼女らのお陰で気持ちが楽になったこともたくさんあります。バスケットボールがあったからこそ、楽しむことができました。

――4年生のとき、大学で自己通算1000得点に到達しました。
ニモ 私はFIUでの1年生のときから出場機会を多くもらうことができ、とてもラッキーでした。そのお陰で同じDIの大学へ転校することができました。どちらの大学でもコーチは私のことを信じてくれ、私がもっと上手くなるように指導してくれました。4年生のときは、大学キャリアで最高のシーズンでした。でも1000得点への到達は、チームメートなしではできないことでした。一緒にプレーしてきたチームメートは、私の大学での成功の大部分を占めています。バスケ以外の面でも、私がホームシックになったときにいつも側にいてくれました。

――大学最後の試合で、シーズン最多の22得点(自己最多は26得点)を挙げました。
ニモ すべてを出し切りたいという気持ちがありました。特にトーナメントでは、何が起こるかわかりません。それは、(下位シードだった)私たちに希望とエナジーを与えてくれました。

――CSUFで5年目をプレーしようと決めた理由は何だったのでしょうか?
ニモ この大学でバスケットボール選手として、また人として、さらに成長できると思ったからです。バスケットボールと実生活のバランスはとても大事なことです。だからバスケットボールだけに集中しすぎることはしたくありませんでした。なぜなら、バスケットボールには浮き沈みがあり、一貫性がないからです。バスケットボールには、自分にはコントロールできないことにたびたび出くわします。だからバスケットボールのプレーだけで幸せを掴つかもうとすると、メンタルヘルスに悪影響を及ぼします。だから、ここに残って大学5年目のバスケをしようと思いました。

――昨年の4月には、女子日本代表のディベロップメントキャンプにも招待されました。
ニモ 昨季、いいシーズンを送れたお陰で最高のチャンスに恵まれました。一緒に参加した選手たちは、みんなとても優しく、私のことを歓迎してくれました。彼女たちから学ぶことがたくさんあり、とてもいい経験になりました。彼女たちはすでにプロでプレーしています。また違うスタイルのバスケットボールでたくさん学ぶことがあったと同時に、すごく楽しかったです。

――弟さんとも仲がいいようですね。
ニモ ヨシは、私の親友のような存在で、とても仲がいいです。ビデオ電話やテキストメッセージでよく話します。「チームメートはとてもクレイジーで楽しい」と言っていました(笑)。みんな、いろいろなところに連れていってくれるそうです。シーホース三河の選手たちはヨシのことを弟のようにかわいがってくれていて、「今日こんなことをやった」という話をよくしてくれます。弟が日本の新たな文化の中で良い先輩に出会えて私もうれしいです。

――お父様や弟さんとの子どものときの練習について話してもらえますか?
ニモ 父とは、学校が終わったあと近くの公園に行って1時間半ぐらい練習していました。家のガレージに設置したフープでも教えてくれました。そしてそのあとは私とヨシで一緒にプレーしていました。ヨシとは4歳離れていますが、小さいときはよく1対1をしました。でも私が高校に入ってからは、バスケ部の練習で忙しかったですし、ヨシもAAUチーム(クラブチーム)でプレーをはじめたので、一緒に練習する機会もなくなりました。それに彼は高校に入るまでに身長が180センチ以上あり、私は対抗できなくなりました。最後に対戦したのはコロナのときで、ヨシにすっかりやられてしまいました(笑)。

 私は子どものころ、母に連れられて、父のアダルトリーグの試合をよく観に行っていました。その影響か、家に帰ってから子ども用のフープにシュートをしてずっと遊んでいたそうです。でも最初に入った子どものリーグでの初めてのシーズンで、私の合計得点は、最後の試合の残り2分ぐらいに2本打ったフリースローのうちの1本で1得点だったそうで、その1点が入ったとき、両親はすごく喜んでくれたそうです(笑)。

 父との練習では、私が父の言うことをちゃんとやらなかったときに走らされたりしていました(笑)。母もいつも練習につき合ってくれて、ビデオを撮ってくれました。私が後から見て、どういうところを直さなければいけないかがわかるからで、試合もいつも撮ってくれていました。大学の試合もすべて録画してくれています。両親は私たちのバスケットボールに常に関わってくれ、私たちが上手くなるようにたくさん助けてくれました。

――あなたの次のステップは何になるのでしょうか?
ニモ 日本(のプロ)でプレーしたいと思っています。弟と一緒に日本でプレーできれば、最高です。

今後は日本でのプレーも希望しているという [写真]=Fullerton Titans Athletics

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