2020.07.21
5月5日の「B2 PLAYOFFS 2018-19」ファイナルで敗れた直後、「上がります!」と言ったその表情は晴れやかだった。
2018-19シーズン限りでユニフォームを脱いだ“ワラ”こと藤原隆充。かつてはbjリーグを代表するガードの1人として鳴らし、チームの垣根を越えて愛された選手だ。2001年のプロ入り以来、群馬クレインサンダーズに至るまで18年に及ぶキャリアを振り返り、その功績を改めて讃えたい。
福岡県・小倉南高校から九州産業大学に進み、エースとして活躍していた藤原。監督が元炳善(ウォン ビョンソン)という韓国人だったこともあり、卒業後は韓国プロリーグKBL挑戦の意思を持っていた。加えて当時のJBLスーパーリーグに進むルートもあった中、藤原は2部にあたる日本リーグの新潟アルビレックス(現新潟アルビレックスBB)の個人トライアウトを受けて入団に至る。
「廣瀬(昌也、現青山学院大男子ヘッドコーチ)さんから声をかけていただいたんです。後で聞いたら、トライアウト当日に僕の目を見てすぐ『獲ろう』と思ったらしいです。『お願いしまーす!』って大声で体育館に入っていったのは覚えていますし、廣瀬さんはそういう気持ちの部分を大事にする人だったんで」
藤原はその期待に応え、新人王を受賞する活躍で日本リーグ連覇に貢献したが、入団当初はそのレベルの高さに打ちのめされたという。「大学まではがむしゃらにやってきたんですが、頑張るだけでどうにかなるレベルじゃないなと思いました。庄司(和広、現新潟HC)さんや平岡(富士貴、現群馬HC)さんら諸先輩方は考え方、知識、技術の差が圧倒的にあった。特に庄司さんは現役バリバリの日本代表で、その人がこれだけ努力するのかって。ただ、前のシーズンも優勝していて、自分が入って弱くなったと言われるのはしゃくだったので必死についていきました」。
チームは日本リーグ連覇の実績を引っ提げてスーパーリーグに昇格。対戦相手のレベルも上がったが、今度はそこで打ちのめされるのではなく、それを「挑戦の日々」としてモチベーションに変え、成長の糧にした。「自分が頑張っても相手はこんなに簡単にかわしていくんだなと思いましたが、そんな人たちを1回でも止めれば気持ち良かった。今まで雑誌でしか見たことがないような人たちでしたが、ビビるとかヘコむとかはなかったです。『楽しまなきゃ!』と思ってやっていましたね」。
スーパーリーグで3シーズン戦った新潟は、1シーズン目こそプレーオフまであと一歩と健闘したものの、その後の2シーズンは大きく負け越した。それでも藤原は「充実した3年間だった」と述懐する。
「そこまで大敗することもなかったし、チームもくさることがなかった。小さいチームが強豪を倒すとか、そういうところでお客さんも含めて盛り上がっていましたね。みんなバスケと真摯に向き合っていて、反骨精神の強い人が多かったんだろうなと思います。僕はそこでプロとしての土台を作ってもらった」
チームがbjリーグに転籍し、多くの選手が去った中で藤原は新潟に残留。パイオニアチームの一員である使命感を持ち、リーダーの自覚も芽生えた。しかし2008年、新規参入の滋賀レイクスターズからエクスパンションドラフト指名を受ける。当時滋賀で編成を担当した井口基史(現バスケットボールコメンテーター)の強い希望による指名だった。当初は「新潟に残留できなければ引退する」と滋賀側にも伝えていたというが、坂井信介代表(当時)からの三顧の礼と、則子夫人の進言を受けて移籍を決断。ゼロからチームを作る難しさがあったが、新潟での経験を惜しみなく還元し、5シーズンにわたって滋賀の組織作りに大いに貢献した。
その後新潟の平岡HC就任と同時に復帰し、2シーズンプレー。その新潟を戦力外となって身の振り方を考え始めていたが、滋賀でコーチと選手の間柄だった根間洋一がHCを務める群馬に移籍。翌2016-17シーズンには平岡HC招へいで再びタッグを組むこととなる。
「群馬で印象に残っているのは小淵(雅)との出会いかな。ああ見えて熱いし、人を思いやれる素晴らしい選手。それと、平岡さんとまた一緒にやれたのはご褒美でした。でも、ずっと『引退しろ』って言われていたんで、最後にギャフンと言わせたいというのはありましたけどね(笑)」
純粋なプロ選手として活動した18シーズンは、国内では最長。誇るべき数字にも藤原は「人の縁に恵まれただけ。僕ができるんだから他の人は20年や25年できる」と言いきるが、その一方でプロのパイオニアの1人という自覚も持つ。
「先輩方も少し下の年代も含め、彼らとみんなで頑張ってきて今のBリーグがある。それは幸せな経験だったし、僕たちでなければできなかったという自負もあります。今の選手たちはこの盛り上がりを大事にして、つないでいってほしい」
まだ詳細は発表されていないが、将来のコーチ業も見据えつつ若年層の育成に携わる方向だという。“ワラ”のプロバスケ人生はまだ道半ばだ。
文=吉川哲彦
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