2024.05.24
2024年2月3日に行われたB1リーグ2023-24シーズンの第21節、右ヒザ前十字靭帯断裂のリハビリを終えたシェーファーアヴィ幸樹(シーホース三河)が約10カ月ぶりにコートへ帰ってきた。
バスケットボールキングでは、Bリーグ公認応援番組『B MY HERO!』のコーナーの一つとして、昨年11月にインタビューを実施。当時リハビリ中だったシェーファーは、チーム状況について「これからめちゃくちゃ良くなると思います」と語っていたが、その言葉通り12月以降の三河は白星を量産。現在中地区2位の好位置につけ、勝負の後半戦を戦っている。
今回のインタビューのテーマは「アメリカでの学生経験」について。ネブラスカ大学の富永啓生らNCAAで活躍する選手も増えてきたなか、ブリュースターアカデミー、そしてジョージア工科大学というアメリカの名門校で得た経験はどのようなものだったのか。日本代表としての実績も持つシェーファー本人にキャリアを振り返ってもらった。
インタビュー・構成=藤田皓己
――キャリアの前に「バスケットボール」との出会いについて教えてください。
シェーファー 初めて触れたのは小学校の体育の授業ですけど、そこからバスケットはしていませんでした。中学3年生の頃に仲が良かった友達の影響でNBAを観るようになりました。まだプレーはしていなかったですけど、その頃からバスケって面白いなと思うようになりました。
――当時はサッカー少年だったようですが、どんな選手だったのでしょうか。
シェーファー 基本的にフォワードをやることが多かったですけど、ボランチをやったり、最後の方はセンターバックをしていました。当時から背は高い方でしたね。高校に入ってからは190センチを超えていたので、かなりヘディングの練習をしていました。
――バスケットボールを実際にプレーし始めたタイミングときっかけは?
シェーファー 高校1年生の夏に家族で東京に引っ越して、サッカーを1年やったんですけど不完全燃焼というか、いまいち成長を感じられない時期がありました。そのタイミングでバスケに誘われて、気付いたら…といった感じですね。
――当時はバスケのどういった部分に魅力を感じていたのでしょうか。
シェーファー 自分の体格が生かせるということもあって、やっぱり勝てるとうれしいじゃないですか(笑)。それに自分が成長できているという実感があることが一番楽しくて。バスケを始めたての頃は、日々ちょっとずつできることが増えることが本当に楽しかったです。迫力もあってスピードも速くて、観ていても楽しいスポーツでしたし、色々な要素からバスケが楽しいと感じていましたね。
――そんなバスケ転向から、わずか1年で世代別日本代表にも招集されました。
シェーファー ちょっと面白い話を振り返ると、僕がバスケを始めた高校2年生の頃に、父が「日本代表の身長はどれくらいなんだ?これだけ身長が高かったら日本代表になれるんじゃないか?」って冗談交じりで話していた。実際に調べてみたら竹内兄弟(公輔=206センチ/譲次=207センチ)と太田敦也さん(206センチ)が僕とほぼ同じか、ちょっと大きいくらいだったので、「いや、マジでいけるんじゃないか?」って…。僕は「ありえないから!そんなの絶対無理だから!」って言っていたら、その次の冬にU18のトップエンデバーに呼んでいただいた。すごく面白い展開でした。
当時の心境としては、ただただビックリでした。まだバスケを始めて1年でしたし、正直本当に身体能力だけでやっていたので、とてもじゃないけどついていけないと思いました。ボコボコにされるんだろうなって、ある意味楽しみにもしていました。
もともと大学でバスケをやる予定ではなかったのですが、U18のトップエンデバーに呼ばれた次の3~4月にドイツで開催された『アルバート・シュバイツァー・トーナメント』に参加した時に、バスケでアメリカに行きたいと思いましたね。
同世代の色々な国の代表と戦って、アメリカ代表とも戦うことができた。当時のアメリカ代表は“最強メンバー”というわけではなかったんですけど、いわゆるNCAAディビジョン1に進学するような子たちばかりだった。まだ僕は全然下手くそでしたけど、「このレベルでこれだけできるなら、全然チャンスあるな。バスケでアメリカに行こう」と思ったのが大きかったですね。
夏に進学する予定だったので、そこから一気にプランを変えました。バスケをやるなら一度プレップスクールを挟んだほうが良いということで、昔からウチと繋がりがあったテーブス海(現アルバルク東京)の父であるBT・テーブスと父が、色々なプレップスクールに連絡してくれました。サウスケントスクールに行っていた矢代雪次郎さん(現サンロッカーズ渋谷通訳兼サポートコーチ)と会話する機会もあったり、色々な情報を集めていました。
最終的に進学したブリュースターアカデミーとはつながりが無かったんですけど、ヘッドコーチの交代があったり環境的にもしっくりくる学校がなくて。父がブリュースターに電話してみたところ「ビッグマンに空きがある」と。父がめちゃくちゃ動いてくれました。
――ブリュースターへ進学後の第一印象は?
シェーファー やっぱりめちゃくちゃうまいなと。本当に強かったので。その年は、結局33勝0敗で全米優勝もしたし、もう全員ディビジョン1進学がほぼ確定しているような選手ばかりだった。めちゃくちゃ身体能力が高いですし、技術も高いですし。すごいなと。能力に圧倒されましたね。
ただ、このプレップスクールは田舎にあって、みんな寮に住んでいました。本当に四六時中、朝から晩までバスケと学校だけの生活で、全員バスケに対する熱量もすごかった。朝から体育館に行ってシューティングしていたり、練習後もシューティングを続けていたり、バスケに対してストイックな人たちばかりだったので、すごく良い刺激をもらいましたね。
――そこからどういった経緯でジョージア工科大学に進んだのでしょうか。
シェーファー 自分は(バスケの実力が)全然足りていなかったということもあって、ほとんど試合には出してもらえなかったんですよ。ああいうプレップスクールの特徴として、練習にいろんな大学のコーチが見に来るんですよね。ブリュースターは結構名の知れた学校ということもあって、本当に毎練習10人以上の大学のコーチたちが座って見ているんですよ。そういう環境でアピールする機会がすごく多かったです。
チームメイトの1人がジョージアテック(工科大)に決まりかけていたんですが、定期的に練習を見に来ていたジョージアテックのコーチが僕のことも見てくれていて、ポテンシャルを感じてくれていました。もともと僕は物理が好きで理系だった。エンジニア系としても優秀な大学ということもあって、(ブリュースターの)ヘッドコーチも推してくれて繋げてくれました。
――ちょっと話は脱線しますが、何か「理系」になるきっかけはあったのでしょうか。
シェーファー 僕は昔から車のナンバーで遊ぶようなことをしていました。左の2桁と右の2桁を足して100になったらテンションが上がったり、実は今でもそんな遊びをやっています(笑)。中学生になって初めて物理に触れたときに面白いなって思いましたね。兄は経済学ですし、弟は芸術系ですし、母は文系ですし、特別“理系”の家系ということではないのですが、昔から数字が好きでしたね。
――シェーファー家ならではの“教え”のようなものはありましたか。
シェーファー 子どもの頃は習い事をたくさんやっていたんですけど、必ず武道(=日本拳法)と音楽と水泳を習わせるということで、うちの3兄弟はみんなその3つを習っていました。音楽でいうと、兄は管楽器、僕はドラム、弟はギターをやったり、色々な物に触れるということを大事にしていましたね。それプラス、サッカーだったり、タッチフットボールだったり、フラッグフットボールだったり…。すごく色々な物に触れさせる家庭でしたし、やりたいことはやらせてくれました。
あとは午前中に授業に行って、午後に練習に行って、3時間の練習を終えるとウェイトトレーニングがあったり、めちゃくちゃ長くて。そこからご飯を食べて寮に戻って、課題をやって、寝て、朝起きて、学校行って…という1日。本当にもう詰め詰めでした。それでいて、僕は元々日本の学校に通っていたということもあって、英語がそんなに得意じゃなかったんです。それも含めてかなり苦労しました。バスケでも自分は試合に出れなかったり、あの時期は辛かったですね。
――当時を振り返るとやはり悔しい思い出が蘇りますか。
シェーファー それでもジョージアテック1年目はポジティブにいけましたし、なんとかプレータイムを勝ち取ろうと積極的に自主練習にも取り組んでいました。大学でも色々なことを学べて、日々成長できている感覚もありましたし、また一段回レベルの高い選手たちとプレーすることで、良い刺激になりました。モチベーションとしては高かったんですけど、ただただしんどいな、きついなという思い出ですね。懐かしいけど、あんまりやりたくないな(笑)。
――もし当時に戻れたら、同じくジョージア工科大に進学しますか?それとも違う選択をしますか?
シェーファー やっぱりあの経験が今に繋がっているし、あそこでプレーした選手が何人かNBAにも行っています。勉学との両立はしんどかったですけど、そういった環境で1~2年プレーして自分を追い込めて、そういった経験が後に繋がっている。間違いなく同じ選択をしていると思います。
――アメリカでは「パスが回ってこない」という話も聞きますが、そのような経験はありましたか。
シェーファー パスは回ってこなかったですね。どちらかというとプレップスクールにいたときにそれを感じました。常にスカウトが見ているアピールの場でもあるので、1on1で積極的にプレーする選手が多かった。自分は1on1が得意じゃなかったので、ピックアンドロールでとりあえずスクリーンをかけて、ということをしていたんですけど、ロールにボールを入れてくれることもなかなか無かったですし、ピックを使ってハンドラーが得点を取りにいくという形だった。なかなかボールは回ってこなかったですね。
今になって自分に対して「もう少し頑張れよ」と思うのは、自分がそもそもボールを要求していなかった。スキルがなかったということもあって、合わせてプレーするタイプだったので、とにかく他の選手がプレーしやすいように頑張るということを意識していた。それは今になって後悔というか、ガツガツいっておけばよかったと思います。
――そんな環境の中でも自身に対する評価が上がったと感じる場面はありましたか。
シェーファー みんながプレーしやすいようにということで、常にスクリーンをかけて、常にボックスアウトして、常に体を張ってプレーしていました。むしろそこでしか僕の生きる道がなかったので、それを頑張っていたら、逆に他の選手たちは「一緒にプレーしたい」という感じを出していましたね。チーム分けをしたら、結構僕がいるチームが勝っていましたし、みんなやりやすそうにプレーしていたし、実際にそういう事を言ってくれる選手もいました。そういう違った意味で、チームメートから信頼してもらえていたなと思います。
でも、戻れる選択肢があるということが大事だと思います。“保険”というわけじゃないですけど、自分に何かあってプロとしてプレーできないようになってしまったときに、向こうに行って改めて色々な経験をすることもできますし、自分がプロキャリアを終えたときに、やりたいことがあって、その過程でジョージアテックに行くことが大事なのであれば、もう一回行くこともできますし。自分としては戻る戻らないというよりは、選択肢として置いておいて、自分がこれから何をするにおいても色々なオプションがある、ということが大事だと思っています。
――どのような経緯で帰国とプロ入りを決断されたのでしょうか。
シェーファー きっかけとしては、2018年の夏の日本代表活動でした。ジョージアテックの1年目のシーズンは、ほとんどプレータイムがなく、ひたすらトレーニングをしていたんですけど、夏に日本代表として帰ってきた時に全然体が動かなくて。試合勘もないですし、なかなか成長できていなかった。それでも、ありがたいことに日本代表にはA代表もB代表も全部呼んでもらっていました。5月に帰ってきてから、アジア競技大会も含めた9月頭まで、この3~4カ月の代表活動でめちゃくちゃ成長した感覚があったんです。
その過程でルカ(パヴィチェヴィッチ)ヘッドコーチ(現サンロッカーズ渋谷HC)に「日本に帰ってこないか」と聞かれたのですが、その時はそんなこと考えたこともなかったので、「大学もあるし帰んなきゃいけない」と返事をしていたんです。その後、ジョージアテックに戻って、ちょっとずつプレータイムをもらえそうだったんですけど、そんなタイミングで僕よりも5センチくらい身長が高いセブンフッター、ウイングスパン230センチくらいある超デカい選手がテキサスからトランスファーで入ってきた。彼に完全にポジション奪われてしまったんです。
彼があと2年大学にいるということもあって、もうプレータイムを取れないと思ったときに、ルカに言われた言葉を思い出しました。あと、自分にとって大きかったのが東京2020オリンピック。そこに向けて、最も自分が一番成長できる環境に行きたいと思っていました。
プレータイムがない中、もう2年ジョージアテックでやってオリンピックを迎えることを考えると、これはよくないと思って色々な人に相談しました。両親も最初は「ありえない」という反応だったんですけど、話していく中で「これからのキャリアも考えてジョージアテックに残るべきではないんじゃないか」という判断になった。プロになることを相談しはじめて、日本に帰ってくるまで3週間くらい。ものすごいスピードで全部が動いて、帰ってきましたね。
――プロ転向後は環境の変化に戸惑いもあったと思います。助けになった言葉や存在はありましたか。
シェーファー これといった言葉というよりも、正中岳城さん(元A東京=2020年に現役引退)が見習う存在でした。彼もそんなにプレータイムがないなか、定期的に重要な局面で試合に出るんですけど、必ず自分の仕事をするし、常に準備をしている。ベテランとして他の選手をまとめていて、「これがプロなんだな」と思いましたし、学ぶことが多かったです。菊地祥平さん(現越谷アルファーズ)も勉強になるところが多かったです。言葉というよりも振る舞いが勉強になる選手が多かったですね。
――最後に、アメリカで経験を積んだ当事者として、日本の学生に送るアドバイスがあれば教えてください。
シェーファー アメリカに行った選手として話をさせてもらうと、そこまでアメリカに固執する必要はないのかなと思います。もちろんアメリカに行くことは良いと思います。世界トップレベルのバスケを体感できて、NCAAディビジョン1ともなればNBAに行くような選手がゴロゴロいるので、そこでプレーできることはすごい経験になりますし、間違いなくアメリカを目標にしている選手たちにはどんどん行ってほしいですし、これからアメリカに行く選手が増えることを願っています。
でも、ただアメリカに行けばいいということじゃなくて、自分はオリンピックという目標があって帰ってきた。やっぱりプレーできる環境とできない環境があって、アメリカでもチームによって、大学によって、監督との兼ね合いだったり、語学の面だったり、自分がどんなに良い選手でもプレーできない環境がある。どれだけヘッドコーチが自分のことを思ってくれているか、自分がプレーできそうな環境か、自分が成長できそうな環境か、それらを理解した上で進学してほしいです。
もちろん英語を勉強していくのは大前提ですけど、アメリカに行ったときには積極的にプレーしてほしいです。行く理由としては成長することが目標だと思うので、成長できる環境がどういう環境なのか理解して決断してほしいです。
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