2016.11.18

元選手からクラブ代表へ、SR渋谷の岡博章社長「地元スポンサーを増やし“企業色”をなくす」

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サンロッカーズ渋谷の前身の1つにあたる日立大阪バスケットボール部で9年間の選手生活を送りながら日立製作所の営業マンとして30年近くキャリアを重ねた。転機が訪れたのは2014年。京都支店から東京への転勤をきっかけに、1年半後にはサンロッカーズ渋谷へと生まれ変わったクラブの社長に就任することになった。元選手でありながら「長く“企業人”として生きてきたが、これまでの経験や知見を活かしたい」とビジネスマンとしての自信をのぞかせる。母体企業の強力な後ろ盾はあるものの、そこに甘えてもいない。「渋谷区のいろいろな企業に応援してもらえるチームになるためにも、極端な話、“企業色”を早くなくすことが理想的かもしれない」。大胆発言は勝算あってか。転換期のクラブを上昇気流に乗せられるかは、岡博章社長の手腕に掛かっている。

インタビュー=安田勇斗
写真=新井賢一

――まずは社長に就任されるまでのキャリアについてお聞きします。もともと選手だったそうですが、バスケットボールはいつから始めたのでしょうか?
 高校からです。中学の時はテニス部でした(笑)。高校(兵庫県立鈴蘭台高等学校)に入って、食堂にいた時、背が高かったのでバスケットボール部の先輩に声を掛けられて、気づいたら入部届けを出されていました(笑)。

――その時の身長は?
 今と同じ196センチでした。

――高校から初めて、すぐにのめりこんでいったんですか?
 夏合宿所を抜けだしたりして(笑)、一度辞めたんですよ。イメージと違ったんですよね。基礎練習ばかりでしんどくて。2年生になって試合に出られるようになったんですけど、名もない高校で、近畿大会に何とか出場できるぐらいでした。

――その後進んだ京都産業大学は名門校です。
 その近畿大会に出ていたところを、大学の方に見てもらっていたのかと思います。それで推薦で入学しました。

――大学ではインカレ(全日本大学バスケットボール選手権大会)でベスト16と素晴らしい成績を残しました。
 そうですね。高校で痛い目に遭っているので、その反省を活かして大学での合宿所生活は耐えぬきました(笑)。

――そこから日立製作所に入社し、日立大阪バスケットボール部に入部しました。
 うちの大学は関西では強いチームで、日立に先輩がいたこともあって声を掛けてもらいました。入部時の日立大阪は、現在のサンロッカーズ渋谷の前身にあたる実業団チームでした。日立本社ライジングサンと日立大阪ヘリオスの2チームがあり、両チームとも1999年には1部リーグに所属していましたがその年を最後に、2000年にサンロッカーズとして生まれ変わりました。

――日立大阪では95年まで9年間、プレーしています。
 引退する1年前に初めて実業団から日本リーグ2部に昇格しました。が、その翌年に最下位になってそのまま引退しました(苦笑)。

――引退の理由は?
 9年もやっていて、一方で会社では仕事もあって部下もいたんです。「いつまでバスケットやってるんですか」という部下からのプレッシャーがあったんですよ(笑)。そろそろ社業に専念しないと、ということで引退しました。

――そこからは営業マン専任で20年近く勤められてきたのですか?
 そうですね。転勤もあって神戸、東京、大阪、京都などを転々としました。京都支店には8年ぐらいいて、2年前から東京にいます。

――その2年前、2014年10月にサンロッカーズの副部長に就任されました。当時はどのような職務を担っていたのでしょうか?
 転勤のタイミングで、OBの方々にも推薦していただいて副部長を務めさせていただくことになりました。ただ、この時は何をしていいのかわからなくて(笑)。とりあえず先輩方が毎試合同行していたと聞いて、自分もチームに同行していました。それと、企業の代表としてベンチに入るからにはちゃんと礼節を尽くしなさい、と言われていたのでその気持ちを持って行動していました。それでもこの時は、たくさん先輩方がいる中で、転勤してきたばかりの自分がチームの副部長で本当にいいのかな、というのはありましたね。

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――代表になられてからも毎試合アリーナにいらしているんですか?
 そうですね。リーグの実行委員でもありますので、可能な限りホーム、アウェー両試合に立ち会わせていただいています。

――その副部長のポジションからどういう形で社長になったのでしょうか?
 クラブのトップにあたる部長から、今考えればあれが打診かなという話がありまして。私自身、Bリーグ開幕に向けて、渋谷区や青山学院と交渉している中で、当然途中で投げだすことは考えていなかったので、その後正式にお受けしました。

――そして今年4月1日に会社設立と社長就任が発表されました。社長として最初に取り組んだことは?
 一つ目は渋谷区、青山学院とホームアリーナの社外発表を1日でも早くできるよう取り組みました。二つ目は大学のアリーナをお借りするということで事故なく試合を運営できるのか。お客様がいらっしゃる会場で事故は絶対にあってはならないことですし、安全チェックを徹底するために準備を進めました。また、渋谷の“財産”になるためにどうしていくべきかを考えて続けていました。

――試合運営の部分は、日立製作所ご出身ならでは考え方だと思います。
 そうですね。Bリーグが新しく始まり、産官学でスタートする中で、絶対に事故は起こせないので。そこを徹底して半年間取り組んでいきました。

――渋谷の“財産”に、というお話がありました。サンロッカーズはこれまで東京と柏のダブルフランチャイズでしたが、どういうきっかけで渋谷をホームタウンにすることになったのでしょうか?
 おっしゃるとおり、サンロッカーズはホームタウンの東京と、練習場がある千葉県柏市のダブルフランチャイズでした。そこで東京と柏、どちらをホームタウンにするかで両方の可能性を探りました。しかし、柏市はリーグ規定である5000人規模のアリーナを建設する計画がなく断念しました。一方で東京には代々木第一(国立代々木競技場第一体育館)と東京体育館があります。どちらも渋谷区内にあり、代々木はバスケットボールの“聖地”でもあります。非常に魅力的に感じましたし、まず渋谷区に相談に行きました。長谷部(健)区長は好意的に対応してくださり、いい話し合いができたのですが、アリーナの方は代々木が国立、東京体育館は東京都の持ち物で稼働率が高く、なかなか決まりませんでした。

――5000人規模のアリーナが確保できなかった場合は、B1リーグではなくB2からの参戦となります。
 正直、アリーナがなかなか決まらない状況で、追いこまれていた部分はありました。最悪のシナリオとして、3000人規模のアリーナでB2からスタートするという考えも頭の中でよぎりました。

――最終的には青山学院記念館をホームアリーナとすることが決まりました。
 最初に、アリーナスポーツの普及を行っている社団法人のアリーナスポーツ協議会の方から青山学院記念館なら5000人収容が可能ではないか。チャレンジしてみてはと、アドバイスをいただきました。アクセスが良く、とても良い場所だと感じ、すぐに青山学院大学にご相談に行きました。

――普通では考えられない好立地だと思います。
 我々もこれが実現できたら将来すごいクラブになると思いました。だから実現に向けて粘り強く交渉しました。B1に入るためにはアリーナの審査があり、図面を引いて5000人収容が可能であることがわかったので、リーグに申請して昨年8月最後の8チーム枠に滑りこむことができました。渋谷区、青学、アリーナスポーツ協議会の4者で協議を重ねて、最終的に今年5月の発表に漕ぎつけることができました。

――交渉において難しかったのはどんなところですか?
 ホーム30試合のうち24試合を青山学院記念館で行うので、普段使用している学生のための練習の代替場所を確保する必要ありました。そこは苦労しましたね。自分たちだけではどうにもできないので渋谷区にご相談をして、区内の体育館をお借りできるよう調整していただき、大学側にもご理解いただけました。

――その青山学院記念館で10月8日、9日に富山グラウジーズを迎えてホーム開幕戦を行い、幸先良く2連勝を飾りました(第1戦79-61、第2戦76-52)。
 本当に良かったです。ケガ人もいてチームが万全でない中、連勝することができて、よくがんばってくれたなと。

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――一方で観客動員では、開幕の頃からやや下がっています。
 最初の平均2500人というのは“ご祝儀”で、今の1500人が実力値かなと思っています。我々はもともと企業チームですし、ホームタウンを持たないチームでしたから、昨シーズンまではここまで“地域”を意識していませんでした。でも今シーズンからはプロクラブですし、日立やグループの方にも今まで以上に応援はしてほしいと思っていますが、それ以上に渋谷で働いている方や企業の方、地元の小中学生などファン層も変えていかなければダメだなと思っています。実際、お客様の層が変わってきている実感もあります。特に若い男女のカップルや団体のお客様が多く、そういう方々にもリピーターとしてまた来ていただけるように、努力していきたいと思っています。

――青山学院記念館は大学の施設ということもあってお酒が飲めません。これをどうお考えですか?
 最初に大学から聞いた時は「えっ?」と、思いました。でも、バスケット観戦においてはそれも良いことかなとも思っています。野球では攻守が入れ替わるタイミングなどで何かを買って食べたり飲んだりしますけど、バスケットは展開が速くて、飲んでいたりすると大事なプレーを見逃したりするんですよね。実際、ファンの方々も試合中は見ることに集中していて、飲み食いされる方は多くないんです。ですのでそこは割りきって、アリーナでは試合を見ていただき、試合後に渋谷や表参道のアリーナ周辺のお店でご飯を食べたりお酒を飲んだりしていただければなと。またクラブが近隣のお店とコラボレーションして、割引サービスなどを提供できれば、飲食店や街全体のプラスになるのではと考えています。

――まだBリーグが始まったばかりですが、クラブが考える“ゴール”は?
 ホームゲームが2節終わったところで、様々なお声をいただきましたがその一つに「観客を増やすための大原則は強いチームであること。これに尽きる。特に『渋谷』を名乗るようなチームは強くなければ誰も応援に行きませんよ」とメールをいただきました。負けることを恥と感じるぐらいのチームビジョンを持ってほしい! という厳しくも温かいメッセージをいただいたんです。本当にそのとおりだと感じました。観客動員については、リーグからも厳しいメッセージをいただきましたが、決して我々も現状に満足しているわけではなく、3000人、4000人、5000人のお客様に来てもらえるように取り組んでいきたいと考えています。でもそのためには常設の県や市のアリーナを利用するチームと異なり、一つひとつクリアしていかなければならない課題を抱えています。例えば設営です。金曜日と月曜日は大学側で授業やクラブ活動で使用するので、準備は試合当日の土曜日朝7時に開始して、日曜日の夜に撤収完了しないといけません。その中でアリーナの準備をしないといけないわけですが、タイムスケジュールはどうか、空調は耐えられるのか、待機列や防災避難の動線は確保できているか、トイレは混雑しないか、近隣の方々からクレームが来ていないかなど、そういったことを進めながらノウハウを蓄積し安全チェックが完璧にできて次に進めるか検証しています。結果的にここまで大きなトラブルもなく、大学やリーグにご迷惑を掛けずにスタートできました。これからも強いチームを作りを目指し、お客様にスポーツを観て楽しんでいただける態勢を整え、何度も来場いただけるようにしていければと考えています。

――来場促進の具体的な施策は?
 アリーナは都会のど真ん中にありアクセスが便利で、周辺にはデートスポットがたくさんあります。その中で今シーズンは試合開始時間を土曜日18時、日曜日14時に設定しました。これはカップルやお子様連れの方々にも来ていただきやすい時間を意識しました。試合前後に食事をしたり、近くのお店に立ち寄ったり、一日を渋谷や表参道で過ごす中にサンロッカーズの試合が入れればと。その他にもいろいろな取り組みに着手しています。青学出身の芸能人や歌手の方もたくさんいますよね。その方々とコラボレーションするのも楽しいと思いますし、それが実現できるようにアプローチしていきます。渋谷の交差点を黄色いシャツ(チームカラー)で外国人がうろうろしているのも楽しいじゃないですか。現役の青学学生やサークルにアプローチしたり、渋谷区を介して小中学生に観戦イベントを提案したり、その他にもやりたいことは山ほどあります。長谷部区長も、優勝したら渋谷でパレードを、とおっしゃってくれているので、それを実現できるように、早く街の“財産”になれるようにと思っています。我々はもともと企業チームで、今も母体企業から支援を受けています。大きな強みではありますが、それを変えていきたい想いもあります。渋谷区のいろいろな企業に応援してもらえるチームになるには、極端な話、“企業色”をなくすことが理想的かもしれません。早く地元のスポンサーを増やして、より渋谷の街に近づければと思っています。それができれば、集客の面でも3000人、5000人というのが見えてくるかなと。

――社長としてご自身の強みはどんなところだと思いますか?
 難しいですね(笑)。楽観的に行動して苦労を楽しめるところですか。特段の根拠はないのですがこのビジネスを成功させることができる妙な自信はあります。日立という“製造業”からスポーツビジネスという“興行”会社の、まさに正反対のビジネスにチャレンジさせてもらって、前例がないからこそ新しいことに挑戦できる、苦労も多いですが喜びはあります。渋谷区、青学との産官学連携や協創もその一つです。最高のスタッフと選手たちと一緒になってみんなに囲まれながら、成功に向けて根拠のない自信を裏づける努力を毎日積みあげているところです(笑)。

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