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3月20日(現地時間19日)、1990年代にオーランド・マジックなどで活躍したレジェンド、アンファニー“ペニー”ハーダウェイ氏が、自身の母校であるメンフィス大のヘッドコーチ(HC)に就任することが明らかとなった。
ハーダウェイ氏は今季、メンフィス・イースト高を指揮し、同高を3年連続となる州タイトル獲得へと導いた。なお、同氏は今年4月にポートランドのモーダ・センターで行われる『2018 Nike Hoop Summit』で、アメリカ選抜チームのACを務めることとなっている。
メンフィス大はここ2シーズン、タビー・スミスHC指揮の下で勝率6割前後を残したものの、NCAAトーナメントに出場することはできなかった。同大は2014年を最後にNCAAトーナメントから遠ざかっている。
テネシー州メンフィスで生まれ育ったハーダウェイ氏は、大学時代を地元メンフィス大でプレー。2年間で平均20.0得点7.7リバウンド5.9アシストをマーク。50試合以上に出場した選手としては、歴代4位の平均得点をマークした。
ハーダウェイは1993年ドラフト1巡目全体3位でゴールデンステート・ウォリアーズに指名されると、その直後にマジックへとトレードされた。その背景には、メンフィス大在籍時に撮影した映画『Blue Chips』で共演したシャックことシャキール・オニール(元ロサンゼルス・レイカーズほか)の存在があった。映画で共演した両者は撮影期間中に一緒にプレーしたことで意気投合。92年ドラフト1巡目全体1位でマジック入りしていたシャックがハーダウェイ獲得を強く望み、トレードが実現したのである。
93-94シーズン。ハーダウェイはポイントガードのスコット・スカイルズ(元マジックほか)と共にスターターとして2ガードを形成。94年2月上旬以降は正ポイントガードの座を勝ち取り、全82試合でスターターを務め、平均16.0得点5.4リバウンド6.6アシスト2.3スティールを記録し、マジックをチーム史上初(当時)となる50勝32敗へと導く主軸を担った。
翌94-95シーズン、マジックはイースタン・カンファレンストップとなる57勝25敗を記録。ハーダウェイ、シャック、ニック・アンダーソン、デニス・スコット(共に元マジックほか)、そしてホーレス・グラント(元シカゴ・ブルズほか)を加えた布陣で、マジックはリーグを席巻。ハーダウェイはこのシーズン、平均20.9得点4.4リバウンド7.2アシスト1.7スティールを挙げ、オールスター初選出。オールNBAファーストチームにも選出され、リーグ屈指のガードという評価を確立。
プレーオフでは1回戦でボストン・セルティックスを3勝1敗(当時は3戦先勝)、イースト準決勝では95年3月に現役復帰したマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)率いるブルズを4勝2敗で下し、イースト決勝では4勝3敗でインディアナ・ペイサーズに勝利。球団創設6シーズン目で、NBAファイナル進出を果たした。ヒューストン・ロケッツとのNBAファイナルでは4連敗でスウィープ負けを喫したものの、ハーダウェイは平均25.5得点4.8リバウンド8.0アシストと個人としては十分すぎるパフォーマンスを見せた。
翌95-96シーズンは、シャックがケガのため出遅れたものの、ハーダウェイが攻防両面でマジックをけん引。シャック不在だった序盤を17勝5敗で乗り切り、終わってみればイースト2位の60勝22敗とさらに成績を伸ばした。ハーダウェイは平均21.7得点4.3リバウンド7.1アシスト2.0スティールを記録し、2年連続でオールNBAファーストチーム入りを果たした。
意気揚々と迎えたプレーオフは、1回戦でデトロイト・ピストンズをスウィープで下すと、イースト準決勝ではアトランタ・ホークスを4勝1敗で圧勝し、イースト決勝はこのシーズンにNBA最多勝(当時)となる72勝を挙げたブルズと対峙。
前年のプレーオフで2勝4敗と悔しい敗北を喫したジョーダンとブルズは、マジックに対して綿密に研究し、チームとして何度もその対策を練習で行ってきた。対するマジックも前年果たせなかったファイナル制覇を達成すべく、負けられないシリーズとなった。
第1戦、ハーダウェイはフィールドゴール21投中15本成功、ゲームハイとなる38得点を挙げ、シャックが27得点と続いたものの、ブルズとの点差は広がるばかり。最後はブルズが38点差の圧勝で初戦を制す。続く第2戦、シャックとハーダウェイの活躍もあり、前半を終えてマジックが15点のリードを奪うも、後半からブルズがディフェンスのプレッシャーを強めたことで逆転負け。ホームに戻った第3、4戦にも敗れてしまい、屈辱のスウィープ負けとなってしまう。
96年夏。アトランタ・オリンピックのアメリカ代表に選出されたシャックとハーダウェイは、チームメートとして金メダル獲得に貢献した。ところがその期間中、シャックはレイカーズへ移籍することが明らかとなった。超大物フリーエージェントとしてマジックとレイカーズが超高額契約をオファーしたが、シャックがマジックに残ることはなかった。
その要因の1つとして挙げられたのが、ハーダウェイへの嫉妬だった。95年あたりからハーダウェイの人気がチーム内どころかリーグ全体でも屈指のものとなり、シグニチャーシューズ「ナイキ エア ペニー」のCMで“リトル・ペニー”と共演すると、その人気はますます高まっていったからである。ハーダウェイはシャックとプレーすることを望んでいたが、シャックは移籍することを決断したのである。
マジックの大黒柱となったハーダウェイだったが、相次ぐ膝のケガもあり、試合に欠場することが多くなっていった。それと同時にファンから「もっとプレーしろ」「アイツはわざと休んでいる」といった悪評を浴び、精神的に苦しい時期が続いた。
そんな中、ロックアウトにより50試合に短縮された98-99シーズン。ハーダウェイは50試合にフル出場し、平均15.8得点5.7リバウンド5.3アシスト2.2スティールを挙げ、マジックをイーストトップタイ(第3シード)となる33勝17敗へと導いた。
しかし、プレーオフでは第6シードのフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦し、アレン・アイバーソン(元シクサーズほか)に大活躍を許してしまい、1勝3敗で早期敗退。すると99年8月、ハーダウェイはフェニックス・サンズへトレードで移籍することとなった。
サンズでは当時からリーグ屈指のポイントガードと評されたジェイソン・キッド(元ダラス・マーベリックスほか)とタッグを組み、“バックコート2000”として注目を浴びたものの、キッドが00-01シーズン終了後にニュージャージー・ネッツへトレードされたため、わずか2シーズンでコンビ解消となった。ハーダウェイ、キッドともケガに泣かされ、健康な状態で共に1シーズンをプレーすることができなかったからである。
それでも、キッドを故障で欠いた2000年のプレーオフでは、1回戦で前年王者のサンアントニオ・スパーズを相手にハーダウェイが奮闘。ティム・ダンカン(元スパーズ)を故障で欠いたスパーズに対し、ハーダウェイが平均19.0得点6.5リバウンド5.8アシスト1.8スティールを挙げてサンズをけん引し、3勝1敗でスパーズを撃破。シリーズを決した第4戦にキッドが復帰し、レイカーズとのウエスト準決勝へと駒を進めた。
その年の王者となったレイカーズには、マジック時代のチームメート、シャックがいた。ハーダウェイはレイカーズ相手にシリーズ平均41.2分に出場し、21.4得点3.6リバウンド5.6アシスト1.4スティールを挙げたものの、サンズは1勝4敗で敗れ去った。
その後、ハーダウェイはサンズでロールプレーヤーとして活躍。ステフォン・マーブリー(元ネッツほか)とアマレ・ストウダマイヤー、ショーン・マリオン(共に元サンズほか)らと共に03年もプレーオフに出場したが、スパーズ相手に2勝4敗で1回戦敗退。
翌03-04シーズン途中、ハーダウェイはマーブリーらと共にニューヨーク・ニックスへ移籍し、04年こそプレーオフに出場するも、キッド率いるネッツに完敗。それから2シーズンはニックスに所属したものの、出番は限定的となったいた。
06-07シーズンはNBAでプレーしなかったハーダウェイだったが、翌07-08シーズンにマイアミ・ヒートでNBA復帰のチャンスを得た。開幕ロースターに残り、96年以来、約11年ぶりにシャックとタッグを組んだのである。しかしながら、07年12月上旬、16試合に出場後に解雇となり、事実上の現役引退となった。
1989-90シーズンからNBAに参入したマジックは、今季で29シーズン目を迎えた。通算スタッツのトップを見てみても、ハーダウェイの名前は平均スティール(1.9本)しか残っていない。
しかし、プレーにおけるインパクトや華やかさという面で言えば、チーム史上3本の指には入る選手だった。シャックがレイカーズへと移籍してから、ケガのため輝きが失われていく中、97年のプレーオフで見せたパフォーマンスはすばらしいものだった。
97年プレーオフ。イースト7位のマジックは、イースト2位のヒートと対戦。パワーフォワードのホーレス・グラントを欠き、センターのロニー・サイカリーをシリーズ途中で失ったマジックは、初戦を35点差、第2戦を17点差で敗れてしまい、絶体絶命のピンチを迎えていた。
しかしホームに帰ったマジックは、ハーダウェイが大爆発。第3戦で42得点、第4戦も41得点と堅守が自慢のヒート相手にショットの雨を降らせ、マジックが2連勝と盛り返す。最終第5戦でも、ハーダウェイはゲームハイとなる33得点を挙げてヒートを最後まで追い詰めたのである。敗れてしまったとはいえ、このシリーズで見せたハーダウェイのパフォーマンスを、今でも覚えている人は多いのではないだろうか。
昨年1月、ハーダウェイ氏はマジックで殿堂入りを果たした。そのセレモニーでハーダウェイ氏は「(マジックでプレーしていた)フィルムを見るたび、私の目から涙がこぼれてしまいます」と語っていた。
そしてシャックとプレーしていた当時について「我々は当時、スーパーチームを誇っていましたが、私はそれを当然のことだと考えていました。今思うと、その状況をもっと大切にすべきだったと思います。私は(シャックと)残りのキャリアをとおしてプレーするものだと考えていました。シャックが(マジックから)離れ、その後私が(ケガによって)崩れていくなど、まったく考えもしていませんでした」とハーダウェイ氏。
ハーダウェイ氏については「もし膝のケガをしていなかったらどこまで伸びていったのか?」「シャックと共にプレーしていたら、何度も優勝できていたのか?」といった議論が何度も繰り広げられてきた。それほどNBAでもごく一部の選手にしかない、スター性を誇っていたのである。
コーチとして新たなキャリアを歩むハーダウェイ氏。母校メンフィス大のHCに就任したことは、コーチとして正しい道を進んでいる確かな証と言えるだろう。