2020.05.01

マイケル・ジョーダンが最恐集団ピストンズの“ジョーダン・ルール”を破った術(前編)

 バスケットボールの神様として崇められるマイケル・ジョーダンでさえ、キャリア初期から順風満帆だったわけではない。些細なミスでチームに黒星を献上したこともあれば、修羅場では幾度も苦汁をなめている。

 その中でも、キャリア前期にシカゴ・ブルズの前に立ちはだかったデトロイト・ピストンズは、ジョーダンにとって最も困難を極める壁だった。

『Netflix』でスタートしたドキュメンタリー番組『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』の第三話、第四話では、このジョーダン率いるブルズ対ピストンズの激闘の歴史を記録している。

※以下、『マイケル・ジョーダン: ラストダンス』の一部ネタバレを含んでおります。

最恐集団バッドボーイズが考案した「ジョーダン・ルール」

 ブルズは、1988年から1990年のプレーオフにおいて、3年連続でピストンズと対戦している。

 1980年代終盤、衰退しはじめたボストン・セルティックスに代わって台頭したピストンズは、激しいフィジカルコンタクトを全面に押し出した手荒いディフェンスで「バッドボーイズ」と称され、対戦相手に恐怖を与えていた。

 アイザイア・トーマス、ジョン・サリー、デニス・ロッドマンらを有するピストンズは、「Air Jordan」が発動したら最後ということを理解しており、肘、腰、膝などありとあらゆる非道なコンタクトを駆使して、リングへと向かうジョーダンを地に落とし続けた。これが、ピストンズがジョーダン対策として考案した「ジョーダン・ルール」である。

「ピストンズのジョーダン・ルールは、彼に得点を許さないことがすべてだった」、1988年のドラフトでブルズに加入したウィル・パデューは言う。「ジョーダンを真正面から止められる選手はいません。だから、彼とマッチアップする選手、通常はジョー・デューマスでしたが、彼がジョーダンをベースラインに誘導していきます。そして、2人目のディフェンダーがジョーダンに寄せて行動を限定し、ジョン・サリーかデニス・ロッドマンが彼を倒すのです」。

「ジョーダン・ルール」とは、パデューが説明するとおり、いかなる手段を講じてでもジョーダンを止めることを目的とした戦術である。ジョーダンにボールが回らないような周到なマーキングから始まり、ボールがキャッチされた場合はダブルチームで以降のプレーを断念させ、仮に突破された際にはファールをしてでも止める。ここでは、現代では考えられないようなラフプレーも日常茶飯事だった。すべては、ピストンズの勝利のため。ジョーダンの自由を奪うことは、ブルズの得点力を削ぐことと同意義だったのである。

 勝利に貪欲なジョーダンはそれでも、難攻不落の包囲網へ果敢に挑んでいく。しかし、ピストンズは、ジョーダンのエースとしての自覚を逆手に取り、ジョーダン封じに徹した。そんなブルズの試合後に残されたのは、激しく消耗したジョーダンと、彼への依存を体感する不甲斐なさ、そして「敗北」の二文字だった。

 お世辞にもクリーンと言えない戦術に度々屈するジョーダンは、遂に腹をくくる。そして、ジョーダンと彼が率いるブルズは、変革の時を迎えた。

対抗策「トライアングル・オフェンス」の採用

 1990年シーズンのカンファレンス・ファイナルの第7戦でピストンズに破れたジョーダンは、「バッドボーイズ」への正面突破を止め、彼自身がビッグマンになることを決意する。獰猛な守備陣に向かってドライブインするのではなく、ドライブをせずに、よりバスケットに近い位置でボールを受ける新たな戦術に取り組み始めた。198センチ、98キロのシューティングガードが、強靭なフィジカルを有するピストンズ守備陣とマッチアップするのは不可能。しかし、フィル・ジャクソンとテックス・ウィンターが取り入れた「トライアングル・オフェンス」が、不可能を可能にしたのだ。

トライアングルオフェンスをチームに導入したフィル・ジャクソンHC[写真]=Getty Images

「トライアングル・オフェンス」とは、文字通り、三角形を作ることを意識しながら動くオフェンス戦術だ。インサイド1人、アウトサイド2人でトライアングルを形成し、逆サイドの選手2人も連動しながら、パスを中心にオフェンスを組み立てていく。流動性や適切な判断力とスピードがハイレベルで要求されるため、ブルズの面々でも習得には困難を極めたが、戦術理解度を深め、そこにスクリーンやカットといった調味料を加えていけば、圧倒的な個人が存在しなくても確実に得点パターンが生み出せる。この時、ジョーダンは初めて、個人よりもチームを優先することを受け入れた。

 ブルズ黄金期のポイントガードを務めたB.J.アームストロングは、「トライアングルは、究極の変革でした。なぜなら、僕たちはランプレーを一切しませんでしたから」と戦術の変更を振り返る。「ジョーダンが相手ディフェンスの扱い方を理解したら、あとは彼に従うのみでした。彼は自分の思い描くように、試合を組み立てる術を学んだのです」。

 この時、ジョーダンのToDoリストには、2つの項目が用意されていた。ひとつは、肉体的に強くなること。そして、もうひとつは、完璧にポストプレーを習得することだった。

「マイケルが従来と同じようにプレーする限り、ジョーダン・ルールは機能し続けたことでしょう」、ピストンズに年齢的な衰えや主力選手の移籍など、よほどの引き算がなければ、アームストロングの考えは現実のものとなっていただろう。「ですが、彼は調整を試みました。得点するためのポジションでボールを受ける必要性に気づいたのです。これを受けて、彼はポストとウィークサイドから、3ドリブル以下でのプレーを会得します。彼は類稀なるフットワークの持ち主なので、これにより多彩な得点パターンが生まれることになります。ジョーダンという漢は、どんな状況にも適応することができるのです」。

 また、アームストロングは、ジョーダンを手放しで絶賛する。「彼はただのジャンプシューターでもなければ、ポストプレーヤーでもありません。彼はありとあらゆるポジションや局面でプレーできました。オフェンスばかりに注目されていましたが、ディフェンスも基礎がしっかりとしていて完璧な選手です。誰を相手にしても得点できて、どんな選手も止めることができた。敵う選手はいませんでしたよ」。

 新たな戦術に適応しはじめたブルズ一同。だが、ジョーダンはそれだけではピストンズを打破することはできないとわかっていた。そして、ToDoリストに記されたもうひとつの項目、肉体改革に踏み切るのである。

<中編に続く>

文=Meiji

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