2020.07.30
一時代を築いた世代を振り返りながらバスケット界の歴史を紐解く企画。第3回は、日本代表やBリーグで活躍する選手が大豊作な『竹内世代』だ。
文=小永吉陽子
バスケ界の『黄金世代』といえば、今年36歳を迎える1984~1985年生まれの選手に異論はないだろう。彼らは竹内公輔、譲次ツインズを代表して『竹内世代』とも呼ばれ、学生時代には、有望株が揃ったという意味合いで『ゴールデンエイジ』という言葉も使われた。
黄金世代は現在も第一線で活躍している選手が多い。Bリーグでは竹内公輔(宇都宮ブレックス)、竹内譲次(アルバルク東京)、太田敦也(三遠ネオフェニックス)、石崎巧(琉球ゴールデンキングス)、正中岳城、菊地祥平(ともにアルバルク東京)、岡田優介、内海慎吾(ともに京都ハンナリーズ)。
また、引退しているが酒井泰滋(元サンロッカーズ渋谷)、井上聡人(元東京サンレーブス、元オーエスジー他)、阿部佑宇(元パナソニック)らは世代別代表に選ばれている。
さらにB2越谷アルファーズでセンスあふれるプレーを見せる長谷川武や、3人制バスケを牽引する小松昌弘(TOKYO DIME)もU18日本代表として活躍した。
指導者ではコーチングスタッフとして東海大の優勝に貢献し、昨季まで琉球ゴールデンキングスで采配していた佐々宣央(現・宇都宮ブレックスサポートコーチ)がいる。
彼ら黄金世代は高校時代に大挙して登場した。過去の世代との違いは何といっても竹内兄弟のように、2メートル超で動ける大型選手の登場だ。しかも双子であり、揃って有望というインパクトは大きかった。
選手層が厚い代だけに、全国大会はどこが優勝するかわからないほど激戦だった。高校のインターハイとウインターカップ、大学のインカレにおいて、最終学年での成績は以下の通りだ。ここにはU18とユニバーシアードの日本代表に選出された選手の名前を羅列するが、もちろん彼らだけで好成績を上げたわけではなく、この代には有力チームや個性的な選手がたくさんいて、切磋琢磨していた年代だったことも記しておきたい。
【高校3年・インターハイ(2002年)】※以下、竹内兄弟は公輔、譲次で表記
優勝/北陸(石崎)準優勝/能代工(内海)ベスト4/土浦日大(岡田)洛南(竹内兄弟)
【高校3年・ウインターカップ】
優勝/洛南(竹内兄弟)準決勝/北陸(石崎)3位/能代工(内海)4位/福岡大附属大濠(酒井)
【大学4年・インカレ(2006年)】
優勝/東海大(譲次、石崎、内海、井上、阿部)準優勝/慶應義塾大(公輔、酒井)3位/日本大(菊地、太田)、4位/青山学院大(岡田、正中)
高校時代から有望視されていたこの世代には、大きな成長につながる2つの国際大会があった。これらの大会で経験値を積み上げ、自信をつけていったのだ。
【アジアジュニア選手権[現U18アジア選手権](2002年/クゥエート)】
今振り返っても、アンダーカテゴリーにおける革命の大会だったといえる。佐藤久夫コーチ(明成高校コーチ/当時は日本協会強化部)指揮の下、ポジションコンバートを図りながら育成した大会だったからだ。
竹内兄弟にはセンタープレーからの脱皮と、さらなる走力を求め、石崎や小松は大型ポイントガードへの挑戦。また国際大会でシュートチャンスを作ることを苦手としていた日本にスペーシングの理論を叩きこんだ。その方法としてパッシングが用いられ、人とボールとの連動性を作る原理原則を学ぶ機会になったのだ。
残念なことに、他国でも同世代が豊作だったことから結果は5位。現在も代表選手として活躍するイー・ジャンリャンを擁する中国、ハメド・ハダディが軸のイランといった超大型チームと二次リーグで同組になり、中国に2点差で勝利するものの、イランに8点差で敗れたため、得失点差の末に準決勝に進めなかった。
最終順位は優勝が中国、準優勝イラン、3位韓国(韓国も黄金世代だった)。現在の大会方式ならば準々決勝に進出して勝ち上がれる可能性があったが、たった一敗で5位になったのは悔しい限り。ただ史上初となる中国戦での勝利は評価できる。選手たちがプレーの幅を広げたことは確実に将来につながった。
【ユニバーシアード(2007年、バンコク)】
長谷川健志ヘッドコーチ(当時、青山学院大学監督)のもと、竹内兄弟、石崎、岡田、菊地らを軸に1995年の福岡ユニバ以来となる上位に躍進した大会。準決勝でセルビア、3決ではカナダに敗れてメダルは獲得できなかったが、4位は胸を張れる成績だった。
予選フェーズでウクライナ、ブラジルに粘って勝利し、第2フェーズではギリシャ、ドイツといったヨーロッパ勢を抑え、準々決勝では宿敵韓国に1点差で勝利しベスト4入りを果たした。どれも簡単に勝った試合はなく、トランジションの形を出したり、がっぷり四つに組んだり、相手によって対応できるようになったのが大きな成長だったといえる。その背景を振り返ると、大学時代に切磋琢磨した環境がある。
『東海大ルーキーファブ5』と呼ばれたU18代表5人衆(譲次、石崎、内海、井上、阿部)が進学することで話題になった東海大学は、2001年に陸川章監督が就任して本格的な強化を開始し、ファブ5の成長とともに上昇していった。ただ、彼らが入学した時はまだ関東2部リーグ所属。公輔と酒井が入学した慶應義塾大学も、のちに名コンビを組む岡田と正中が出会う青山学院大学も2部からのスタートだった。
彼らは下級生時から大きな期待がされた中、大学バスケ界を“下剋上”で這い上がっていったのだ。慶應大は竹内が1年次の入替戦で昇格すると、翌年には志村雄彦(仙台89ERSのGM)や石田剛規(東京エクセレンスHC)といった4年生の活躍もありインカレ制覇。東海大は2度目の挑戦で入替戦を制して1部に昇格すると、3、4年次はインカレ連覇。青学大の岡田と正中も、1部復帰に2年かかったものの、3年次にはその年の関東リーグを制覇している。
そして学生ラストを飾る4年生のインカレ決勝は『竹内世代』を象徴するかのように竹内兄弟を擁する東海大と慶応大との決勝となり、3点差で東海大に軍配が上がっている。
ユニバ4位という成績は、呼吸が合った高校時代からの経験に加え、大学界の勢力図を変えるほどの激闘を積み上げてきた賜物だろう。
高校、大学と信念を持った指導者に育てられた彼らだったが、日本代表では指揮官が次々に変わる中でそのたびに指導方針が変わり、トップリーグではなかなかプロ化に進まない時代も過ごしている。黄金世代がさらに伸びていく20代に日本代表の強化基盤ができていれば、アジアで低迷期を送ることもなかったのでは、という無念さはある。
それでも彼らは今もBリーグの最前線でプレーするタフネスさを見せている。岡田は公認会計士の資格を取得し、視野を広げた知識を用いて選手会の発起人となり、石崎は未開の地だったドイツリーグへ武者修行。竹内兄弟はともにアキレス腱を断裂する大怪我を負うもリハビリを乗り越えて復帰し、太田はbjリーグ時代から日本代表に選出され続け、小松は関東実業団を経て3人制バスケを切り開く第一人者になっている。
彼らが今も体を張っているのは、変わりゆく時代の中で、みずからができることを模索してチャレンジした結果だろう。竹内世代にはまだまだ最前線で走り続けてもらい、成長し続けるバスケ界でリーダーシップを取ってもらいたい。
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