Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
小さい時からコービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)が大好きだった志田萌は、高校進学時に大きな決断をした。「自分が強くする」という強い意志を持って、「地区で一番弱い高校」だった地元北海道旭川市の旭川南高校に進学したのだ。そのため全国的に名前が知れ渡ることはなかったが、自らの歩み方で目標だったNCAA(全米大学体育協会)1部(以降DⅠ)にたどり着いた。高校2年の時に参加した世界有数のスポーツ選手育成校IMGアカデミーのキャンプでその才能を認められ、勧誘を受けて高校3年の1月から同アカデミーに留学。その後進学した全米短大体育協会(NJCAA)1部のサウスジョージア・テクニカルカレッジでは、チームをNJCAA選手権に導いた2年生の時に全米トップ20を意味するオールアメリカ・セカンドチームに選出されるほど成長した。そして短大卒業後の昨季からは、念願が叶ってDⅠのニューメキシコステイト大学で奮闘している。
暑さが厳しい8月、大学2年目(4年生)のシーズンに向けてロサンゼルスでトレーニングをしていた志田に話を聞いた。
インタビュー・写真=山脇明子
――バスケが好きになったきかっけは?
志田 (小学生のコーチをしていた)父と姉がバスケットをしていたので、自然と好きになりました。コービー(・ブライアント)が大好きで、たくさんバスケットを見ていたのもあるかも知れません
――コービーを好きになり始めたのは何歳ぐらいの時ですか?
志田 小学校3年ぐらいです。YouTubeでずっと見ていました。でもコービーと同じプレーをしたいとかじゃなくて、彼のオーラというか、存在。チームにとってコービーの存在ってすごく大きかったと思うんですけど、そういう存在になりたい、ああいうリーダーになりたいと思っていました。
――中学校は強豪校だったそうですね。
志田 地元の中学校だったんですけど、地元では負けなし。地区では絶対に負けないし、全国を目指すような強豪校でした。中学1年の時は先輩が上手なので試合に出られるわけもなく、すごく悔しかったですけど、中学2年の時からポイントガードとしてスタートで出してもらっていました。でも北海道選抜から漏れるという悔しい思いもしました。結局3年間で1回も全国に行けなくて、手前でいつも負けて悔しい思いをした3年間でした。
――高校は?
志田 私が行った中学校は強豪なので、地元の強い高校に行ったり、関東とかに出るというのが普通だったんですけど、私は地区で一番弱い高校に行きました。顧問の先生がすごく有名な方で。でも私は全然知らなかったんですけど(苦笑)、初めて会った時にこの人ならついて行きたいというオーラを感じました。「強豪から弱小に行くなんて」とみんなから反対されましたけど、「自分が強くする」と先生と約束しました。
――高校ではどれくらいまで勝ち進んだのですか?
志田 全道大会のベスト8まで2度勝ち進んで、1回だけ先生に地区優勝をプレゼントできました。別にすごい選手がいたわけではなく雑草チームでしたが、みんなで先生を信じてやっていました。
――その時の経験というのは、今に活きていますか?
志田 活きていますね。中学校と高校でプレースタイルが全然違って、中学校ではパス、ゲームメイクが中心だったんですけど、高校では最初は自分だけがバスケットができるという状況だったので、それプラス自分が点を取りにいかなければならなくて、そこから点を取りにいけるようになりました。あとは精神面ですかね。誰にも負けたくないという気持ちが、高校でより強くなりました。
――強豪校という恵まれた環境ではないところでも選手として強くなれたということですね。
志田 これは自分の考えですけど、環境はいいとしても、強豪校に行ったから強くなれるわけじゃないと思うし、うまくなれるわけじゃないと思うんです。そこでつぶれる選手だってたくさんいますし。だから自分は強豪校という名前にとらわれないで、ただただ自分が目指すところに突き進もうと思いました。
――練習は部活動以外でもやっていたのですか?
志田 私の学校は進学校だったので、テスト前とか体育館の使用についても厳しくて勉強中心という感じでした。なので、朝練の前4時ぐらいに起きてやったり、練習後往復で40分ぐらいかかるところにあるガラガラの体育館でやったりしました。私が、人がいないところを好んでいたので、仕事が終わって疲れているのに、父がわざわざ遠いところまで連れて行ってくれて、一緒にシューティングをやってくれました。母は帰りが遅いのにご飯を一緒に食べるために待っていてくれていました。両親がそんな感じでサポートしてくれたので、環境は限られていましたけど人一倍練習できました。
――アメリカに行こうと思ったのはいつ頃ですか?
志田 中学2年から中学3年ぐらいの時ですかね。行きたいと考えていましたけど、それは反対されますよね。現実を見なさいって、最初はたくさんの人に反対されました。
――そんな中、高校2年の3月にIMGのキャンプに参加したのですよね。
志田 そうです。実は、母が私に現実を見させて諦めさせるために2週間だけキャンプに送ってくれて、本当はそのキャンプで、アメリカでバスケをしようという夢を追うのは終わりにするつもりでした。ところが「来ないか?」って声を掛けてもらえて、逆にチャンスをつかんでしまって(笑)。でもすぐに母に伝えたら、「良かったね」って泣いて喜んでくれました。
――IMGで4カ月プレーしたあとサウスジョージア・テクニカルカレッジに進学しましたが、その時からDⅠの大学を狙っていたのですか?
志田 アメリカでやるんだったら、DⅠでプレーしたいという思いがありました。でも短大に入ってからやめようと思ったこともありました。英語はできなくても別にいいんですよ。ただ最初はバスケがうまくいかなくて、もう日本に帰ろう、もうDⅠを目指すのはやめようと思いました。
――それはどんな壁だったのですか?
志田 アジア人だからボールをもらえない。信じてもらえない。それで自信をなくして、プレーにも影響が出て、誰にも話すことができないし、家族にできないとか言いたくないし。もうダメだと思いました。
――そこからどうやってあんなふうにチームを引っ張るようになったのですか?
志田 1年目を終えて日本に帰った時、周りから「頑張っているね」とか「応援しているよ」、「うまくなったね」といった言葉を掛けてもらえて、「自分はここで諦めちゃいけない」、「自分はもっとできるんだ」と自信が出てきて、また戻りました。自信がついたらプレーも全く違って、ミスはしますけど、あそこまでチームを引っ張っていけるようになりました。
――パスはどうやってもらえるように?
志田 「くれくれ」って(笑)。「いいからくれ、ボールをちょうだい!」と言って。それで1対1でシュートを決めたらそれで信じてくれるので。「くれ」って言って、ボール渡さない(笑)。
――アメリカのバスケですよね(笑)。
志田 それがここで生きていくために必要なことだと思います・
――現在のニューメキシコステイト大は、パンデミック中だったために画面越しで練習公開をしてオファーを得たのですよね? その時の気持ちをお聞かせください。
志田 練習後、コーチに電話がかかってきて、「ちょっとおいで」と言われて、そこで、電話で言われました。「え!?」みたいな。信じられなかったです。「本当に目標が現実になったの?」と追いつかなくて、でもすぐに母に電話しました。「良かったね」って喜んでくれて、父も大喜びでした。
――昨季の大学1年目はどうでしたか?
志田 はっきり言って、最悪のシーズンでした。(1年目だからといって)納得はしていません。確かにレベルが違うから、そこを合わせるのは大変だけど、それにしてももっと試合に出たかったし、出してほしかった。練習で誰よりも一生懸命やっていても出場にはつながりませんでした。コーチに信用しきってもらえなかった。それもたぶん自分に原因があるんですけど。だから、そういうことを踏まえるとあまりいいシーズンではなかったですね。
――4年生となる今季はどの部分を向上させようと思っていますか?
志田 まずは自信がなきゃ何もできません。私の場合は特に自信がなかったら、すぐにそれがプレーに現れてしまうので。なので、日本に帰ってリラックスしている時にもう一回自分の目指すところを考え直して、自分はできる、自分の能力を信じようとリセットして、あとは練習するのみです。自分の苦手なシュートと、ウエイトをやって体を強くするという部分ですね。
――将来的に日本代表になりたいという夢はあるのですか?
志田 あります。そういうところでプレーしてみたい。どこまでいけるかわからないですけど、目指すなら、そこまで目指したいです。
――今季に向けての意気込みを聞かせてください。
志田 結果を残すために必死になります。プロになりたいので。そしてプロ選手が終わったら、地元にはすごくお世話になったので、地元でバスケットのクリニックなどをして、バスケットの楽しさを伝えていきたいです。今はまずプロになりたいので、結果を残す。自分に求められているのはそれだけなので、結果を残します。