2019.02.05

「芯」のあるバスケで遠のいた世界に挑む~車いすバスケ女子日本代表

若手の台頭など、再び世界の頂点に向けて歩み始めた車いすバスケ女子日本代表 [写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

車いすバスケ女子日本代表はパラリンピックにおける輝かしい歴史を持つ。2000年シドニー大会では3位決定戦でオランダを破り銅メダルを獲得。これは日本の車いすバスケ史上男女を通じて最高の成績だ。04年アテネ大会では5位に沈んだものの、08年北京大会では4位。あと一歩のところで表彰台を逃したものの、それでもメダル争いに再び参戦したことで、日本のバスケが世界に十分通用するところを見せつける形となった。しかし、その北京以降、パラリンピックには出場することさえできていない。果たして、日本の置かれた状況とは――。

文・写真=斎藤寿子

中国の台頭で一変したアジア・オセアニアの情勢

 日本は今、世界の舞台から遠のき、厳しい状況が続いている。”暗黒時代”の始まりは、8年前の11年にさかのぼる。

 それまでオーストラリアにこそかなわなかったものの、アジアでは圧倒的に強く、向かうところ敵なしだった日本。さらに北京パラ以降の海外遠征では、イギリスには負け知らず、北京パラ銀メダルチームのドイツやシドニーパラで金、アテネパラで銅と2大会連続でメダルを獲得したカナダにも勝つなど、チームは勢いに乗っていた。

「今度こそ、パラリンピックでメダルを取る」

 それが当時の日本女子の目標のはずだった。ところが、その本番を前にして波乱が起きた。

 11年、韓国で行われたロンドンパラリンピックの予選会「アジア・オセアニアチャンピオンシップ」。前年のアジア大会でも勝利をおさめるなど、それまで負けたことのなかった中国を相手に、まさかの敗北。当然と考えていた決勝進出はかなわず、その時点で2枠のパラ出場権を逃した。

 そして、それを機にアジアのみならずアジア・オセアニアの情勢が変わり始めた。

 翌12年ロンドンパラこそ、オーストラリアは銀メダルを獲得し、中国は5位と世界の表彰台には届かなかったが、その3年後の15年、翌16年リオパラの出場をかけて行われたアジア・オセアニアチャンピオンシップでは、決勝で中国がオーストラリアに59-43と2ケタ差での勝利を収め、優勝したのだ。

 それ以降、中国は圧倒的な強さを誇っている。17年世界選手権の予選会でも中国はオーストラリアを57-46とまたも2ケタ差をつけて優勝。そして18年世界選手権ではメダルこそ逃したものの、中国はついに世界のベスト4となった。

現役選手の中でパラリンピックを経験している1人、キャプテン藤井郁美 [写真]=斎藤寿子

 一方、日本は14年世界選手権(9位)を最後に、公式戦での世界の舞台には立つことができていない。現役選手でパラリンピックを経験しているのは、キャプテン藤井郁美と海外でもプレーするチームの大黒柱・網本麻里、そして最年長の大島美香の3人のみ。事実上、”経験不足”は否めない。

 その”経験不足”をどうカバーするのかが課題の1つだが、現役大学生の柳本あまねや、元サッカーなでしこリーグ(当時はLリーグ)の選手だった清水千浪など、新しい選手たちの成長が著しく、チームは今、進化の道半ばだ。

 18年1月には、08年北京パラで4位へとチームを導いた岩佐義明ヘッドコーチが指揮官に再び就任。さらにリオまでパラリンピックに4大会連続で出場し、北京、ロンドンではキャプテンを務めた藤井新悟がアシスタントコーチを務める。藤井ACが自ら男子日本代表で身に付けた”ベーシック”を女子にも取り込み始めたことで、チームは徐々に”芯” のあるバスケへと変わり始めている。

 その進みは決して速くはない。だが、一歩一歩着実に進化している。

海外でもプレーするチームの大黒柱・網本麻里[写真]=斎藤寿子

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