2020.07.01

【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.2】吉田絵里架「“嫌々”から“夢中”になった車いすバスケ」

2度のパラリンピックに出場し、現在も日本一のチームの中心となっている吉田絵里架[写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

Vol.1で登場した網本麻里(カクテル)をはじめ、所属チームの選手から「いろいろと教えてもらっている尊敬する選手」としてよく挙がるのが、2度のパラリンピックに出場した経験を持つ吉田絵里架(カクテル)の名だ。実際、コートの内外で選手たちに声をかけている彼女の姿をしばしば目にする。だが、もともとは車いすマラソンでパラリンピックを目指そうとしていたという。果たして、どんなきっかけで車いすバスケットボールの道を進むことになったのだろうか。

文・写真=斎藤寿子

苦労した分、大きかった喜び

 もともと走ることが好きだった吉田が、ケガを負い、車いす生活になって最初に始めたのは陸上だった。世界のトップランナーたちも集結する大分国際車いすマラソンにも出場していたという。そんな吉田が、車いすバスケを始めたのは、友人からの誘いがきっかけだった。

「正直、最初の頃は嫌々やっていた感じでした。週末もマラソン大会があれば、そっちを優先していたくらいです」

 車いすバスケには、障がいの程度によって持ち点がある。吉田は最も障がいが重いクラス1.0の選手で、鳩尾から上の部分にしか力が入らない。そのためシュートは座った状態のまま、ほぼ両腕の力だけで、一般のバスケと同じ高さ・距離のゴールに入れなければならない。これは、見た目以上に至難の業だ。

「やっぱりバスケの一番の醍醐味はシュートを決めること。それが最初はリングにさえも、まったく届かなかったんです。試合に出させてもらっても、何もできないから一つも面白いことがなくて……」

 ようやくバスケを面白く感じ始めたのは、始めてから1年が経った頃だった。

「体の使い方がわかってきて、腕の力もついてきた時に、やっとシュートが入るようになったんです。苦労した分、うれしくてうれしくて……。そしたら『もっと、うまくなりたい』という気持ちが出てきました」

車いすバスケをやめなかったのは「負けず嫌いのおかげ」と語る吉田[写真]=斎藤寿子

声を出すことが“自分の仕事”だから

 車いすバスケを始めて4年目の2001年には、日本代表候補の強化合宿に呼ばれるようになり、04年アテネ、08年北京と2大会連続でパラリンピックに出場した。現在、第一線は退き、女子U25日本代表のアシスタントコーチ(AC)を務める傍ら、所属するクラブチームでプレーを続けている。

 今も変わらず試合中に聞こえてくるのは、どんな時もチームメートを鼓舞する吉田の声だ。チームが劣勢な時も、疲労困憊であるはずの終盤でも、彼女の声が途切れることはない。その理由を、吉田はこう語る。

「それが、私にとっての仕事だからです。私は、ほかの選手と比べてスピードやシュート力が秀でているわけではありません。その自分が誰にも負けないくらいできることと言えば、声を出し続けること。それが自分の存在価値でもあると思っています」

 実はこれは、吉田が代表候補の合宿に最初に呼ばれた時に指導者から徹底的に叩き込まれたことなのだという。

「当時のACから『お前の一番の仕事は声を出し続けることだ。もし試合中、ベンチからの指示が周りに伝わっていなかったら、それはお前の責任だぞ』と言われていたんです。まだ経験も浅く、キャプテンでもなかったですし、『なぜ私だけ叱られるの?』と思うこともありました。でも今思えば、車いすバスケをするうえで選手として一番大切なことを教わったと思っています」

 選手それぞれに役割があり、一人ひとりがその役割を全うすること――さまざまな程度の障がいの選手が一つのチームとなってプレーする車いすバスケの根幹でもある。それを体現し続けている吉田を、慕い、尊敬している選手は少なくない。

厳しくも面倒見のいい吉田を慕う選手は多い[写真]=斎藤寿子

(Vol.3では、吉田選手が注目している選手をご紹介します!)

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