2022.03.16

【短期連載・TOKYOの先へ】秋田啓「心震えた歴代の先輩たちの思いが結実したメダル獲得の瞬間」

インタビュー第11回は、チーム随一のセンターとして攻防に渡って活躍した秋田啓 [写真]=斎藤寿子
新潟県出身。大学卒業後、業界紙、編集プロダクションを経て、2006年よりスポーツ専門ウェブサイトで記事を執筆。車いすバスケットボールの取材は11年より国内外で精力的に活動を開始。パラリンピックは12年ロンドンから3大会連続、世界選手権は14年仁川、18年ハンブルク、アジアパラ競技大会も14年仁川、18年ジャカルタの各大会をカバーした。

 東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。日本列島を熱狂させた選手たちに東京大会での戦いの日々、そしてこれからについてインタビューする。第11回は、全8試合中7試合で先発出場し、チーム随一のセンターとして攻防に渡って活躍した秋田啓。約39分間出場した予選リーグ韓国戦でのリバウンド数はチーム最多の11を誇った。さらに初戦のコロンビア戦ではチーム最多の24得点を挙げるなど、5試合で2ケタ得点をマーク。とくにペイントエリア内で相手に囲まれながらのタフショットを決め、チームの勝利に貢献した。予選リーグ序盤の3試合は30分以上プレーするなどしてチームに勢いをもたらした秋田にインタビューした。

取材・文=斎藤寿子

ベテラン藤本の涙で歴史的瞬間を感じた準決勝

――初出場となった東京パラリンピックは、どんな舞台でしたか?
秋田
 どれも厳しい試合が続きましたが、プレーするのがとても楽しくて「最高の舞台だな」と思いながら過ごしていました。その一番の理由は、チームの状態がとても良かったこと。また結果を出すことができていた分、ポジティブに考えられたのだと思います。

――コロナ禍での開催で無観客試合となったことについては。
秋田
 僕たち日本代表はとても恵まれた環境でバスケットができているんだということを実感した場でもありました。ふだんの合宿から感じていたことではありましたが、開幕直前までどうなるかわからない大変な状況の中、あれだけの舞台を用意していただき、僕たちは試合に集中することができました。確かに無観客の会場は寂しいものがありました。でも全試合をテレビで放映していただいたおかげで、たくさんの人たちが見てくださり、応援してもらっていることは大会期間中もSNSをやっているチームメートから教えてもらっていたので、無観客の会場でも反響の大きさを感じることができました。それが、僕たちの大きな力になったと思います。

東京パラリンピックを「最高の舞台」と表現した秋田[写真]=Getty Images

――全8試合の中で、一番印象に残っている試合は?
秋田
 準決勝のイギリス戦です。個人的にというよりも、日本代表がメダル獲得が決まるという大舞台に立っているという事実に心が震えた試合でした。勝利の瞬間、僕はベンチに下がっていたのですが、藤本(怜央)選手がこらえきれずに涙しているのを見て、「今、自分はすごいところにいるんだな」と。これまで長い間、代表の中心選手として戦ってきた選手たちが感情を抑えきれない様子を目の当たりにして、改めてことの大きさを実感したんです。今ここにいる自分たちだけではなく、これまで築き上げてきた先輩たちからつないできたものを“メダル”という形で残すことができた歴史的瞬間に立ち会えたことは、本当に光栄でした。

――秋田選手自身のプレーで印象に残っているシーンはありますか?
秋田
 予選リーグ第2戦の韓国戦です。第1クォーター、8-7と日本のリードがまだ1点という状況から3本連続でシュートを決めることができ、相手を引き離すことができました。

――1本目はチームメートがシュートを外したリバウンドボールを取ってのゴール下から。2本目は秋田選手がディフェンスリバウンドを取り、速いトランジションで攻撃に転じて相手の守備体制が整う前にペイントエリア内から打ったバンクシュート。3本目は、カットインしかけた豊島英さんからのパスアウトのボールをペイントエリアの外から決めました。
秋田
 チームが僕に得点を求めてくれているというふうに感じていて、僕がシューターとしてパスを受ける場面がどんどん増えていった中で、しっかりと決めることができました。とくに3本目は、豊島さんがトップからカットインした時に、瞬時に自分にパスが来るとわかって、そのうえでタイミングを合わせた動きをすることができたプレーでした。インサイドだけでなく、ペイントの外からのシュートも決めていくことが重要だと考えていたので、相手に嫌な印象を与える意味でも大きかったかなと思います。

5試合で2ケタ得点をマークするなど、日本の得点源の一人として存在感を示した[写真]=Getty Images

メダルには人を笑顔にする力があることを実感

――銀メダルを獲得したことを実感したのはいつでしたか?
秋田
 正直、未だ現実味を帯びていないところがあるのですが(笑)。それでも地元に帰ってたくさんの人に銀メダルを見てもらったり、かけてあげたりしたときに、みんながすごく喜んでくれて、とてもうれしかったです。僕自身、これまでは「メダリストってすごい」という気持ちが漠然とあったのですが、実際に自分がなってみると、別にすごいわけでもないし、何か変わるわけでもないなと。ただメダルにはやっぱり大きな力があるということは感じています。これだけ多くの人たちを笑顔にできるってすごいなって。自分が何か変わるというよりも、人に喜んでもらえる力を得られる。それがメダリストなのかなと思っています。

――メダリストとして大事にしていきたいことはありますか?
秋田
 競技力以上に、メダリストとして見られるのは人間的な部分だと思います。日本代表というのは、結果を出すということだけでなく、やはり応援してもらってこそ価値があるものだと思うんです。だからこそ言動も注目されると思うので、技術的なことだけではなく、しっかりと人間力も磨いていきたいと思います。僕は、車いすバスケットボールがどれだけ楽しいスポーツかということをもっと多くの人に知ってもらいたい。そのためにも発信力のある選手になりたいし、だからこそ自分自身がもっと人として選手として成長していきたいと思っています。

――東京パラリンピックでの盛り上がりを持続させていくためには、どんなことが必要だと思いますか。
秋田
 競技としての魅力を、どれだけコンスタントに発信できるかが何より大事だと思っています。実際、東京パラリンピックで初めて車いすバスケットを見て興味がわいた人から「いつ試合がありますか?」ということを聞かれることも増えました。そうした興味を持ってくれた人たちが、今度は実際に見にいくことができる環境が必要だなと。今はコロナ禍でなかなか有観客で試合をすることができませんが、それでも女子がやったように強化指定選手の紅白戦をYouTubeで流すなど、ファンの方たちの目の届くところでの活動の場をつくることはできるかなと。制限はありますが、工夫次第でいろいろとやれることはあるように思います。

激闘の末、獲得した銀メダルには、大きな力があることを実感しているという[写真]=Getty Images

目標は42歳での4回目のパラリンピック出場

――新体制のチームでは、副キャプテンに選ばれました。
秋田
 副キャプテンの一人に選んでいただきましたが、特別に僕が何かをしなければいけないとは考えていません。東京パラリンピックに向かっていたときから、当時キャプテンだった豊島さんも「全員がキャプテンシーを持つという意識を持ってほしい」という話をされていました。だから僕も、副キャプテンであろうとなかろうと、今まで通りチームのために自分が何ができるかを考えて行動したいと思っています。ただ実際、若い選手が増えてきている中、僕が行動で示せる部分は多くなってきているとは思います。これまでちょうど中間にいた僕は、上の先輩からも下の後輩からも引っ張ってもらっていました。だから、これからは自分がどちらからも頼られる存在になれたらと思っています。

――今後の目標を教えてください。
秋田
 僕は2017年からずっと公式戦のほか、海外遠征や合宿に呼ばれ続けてきていて、それが大きな自信となってきました。だから、まずは今後も「必要な選手」として呼ばれ続けられるようにすること。そして、パラリンピックでいえば、2024年パリ大会だけでなく、その先の28年ロサンゼルス大会にも出場したいと思っています。そして、32年には42歳で4回目のパラリンピックを迎えるというのが、一つの大きな目標です。その中で競技者として続けていきながら、次世代の選手たちの育成にも携わっていけたらなと思っています。

――将来的には指導者を目指すということでしょうか。
秋田
 いえいえ、僕はコーチをやりたいとはまったく思っていないんです。今、日本代表としてプレーしていますが、僕はバスケットボールの素人。そう思っているからこそ、いつも吸収したいという気持ちがあるし、それが向上心につながっていると思っているのですが、指導するのはちょっと向いていないかなと。ただ長く競技者としてやっていく中で、一緒にプレーをして示すことはできると思うので、例えば若手の合宿の手伝いに行けたらなと。なので、いつでも声をかけていただけたらと思います!

秋田は42歳で4回目のパラリンピックを迎えるという大きな目標を掲げた[写真]=Getty Images

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