Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。日本列島を熱狂させた選手たちに東京大会での戦いの日々、そしてこれからについてインタビューする。第3回は、8試合中2試合で40分間フル出場するなど、チーム最長のプレータイムを誇った鳥海連志選手(パラ神奈川/WOWOW)。1試合平均のリバウンド数(10.8)とスティール数(2.0)は、出場12カ国中、堂々の3位にランクイン。ガードの役割もこなすなど、マルチなプレーヤーとして銀メダル獲得に貢献した鳥海選手にインタビューした。
取材・文=斎藤寿子
――自身2回目の出場で銀メダルを獲得した東京パラリンピックは、どんな大会だったでしょうか。
鳥海 これまで応援してきてくれた方々に対しても、結果を残すことができたことというのが何より良かったなと思いました。また、より多くの方々に車いすバスケットボールのことを知っていただく機会となり、たくさんの応援をいただきました。無観客ではありましたが、開催してもらって本当に良かったなという気持ちが一番にあります。
――一番印象に残っている試合は?
鳥海 準決勝のイギリス戦です。特に前半は、ローテーションがうまく回っているにもかかわらず、イギリスが高確率にシュートを決めてきて「さすがは世界選手権覇者」という強さを見せつけられるような展開でした。でも、後半になるにつれて自分たちがやりたいバスケットを表現できているという感覚が強くなっていたんです。メダルを取るという目標が達成された試合でもあったので、一番印象に残っています。
――逆になかなか自分たちのバスケットができずに苦しかった試合は?
鳥海 初戦のコロンビア戦は難しい試合だったと思います。本来なら内容的にもスコア的にも、もっと大差をつけて勝っていい相手だったと思いますが、初戦だからだったのかチーム全体が硬かった。相手エースへの対策を図っても、結局は高確率でシュートを決められてしまっていましたし、何か一つ踏み外していたら負けていたかもしれないなと。
――鳥海選手自身は、トリプルダブルを達成した試合でした。
鳥海 確かにトリプルダブル達成は、車いすバスケの周知という意味では、初戦から注目してもらえてうれしいことでした。ただ、僕は自分一人がピックアップされるよりも、チーム全体としていいバスケットをして勝ちたいという気持ちの方が強かったんです。だからもっといろんな選手が活躍をして、みんなでプレータイムをシェアするような内容の試合でスタートしたかったなという思いがありました。
――チーム本来の力を発揮した感覚を持てたのは、いつからだったのでしょうか?
鳥海 グループリーグ第2戦の韓国戦です。相手エースのキム・ドンヒョンをどう抑えるかというのがテーマとしてあった中で、彼を6得点、FG成功率19%に抑えました。チームとしても、また本来ディフェンスでチームに貢献するというのがスタイルの僕自身にとっても、ようやく「ディフェンスで世界に勝つ」という一歩目を踏み出せたかなという感覚がありました。振り返ると、大会全体を通しての結果を左右した試合でもあったと思います。
――メダリストになったという実感がわいたのはいつでしたか?
鳥海 準決勝のイギリス戦に勝った時には、そういう感覚がありました。だから僕にとっては決勝のアメリカ戦はオールスターというか、勝者同士の決戦というような感覚があって、そのステージに立った時に改めて「メダリストになったから、ここにいるんだ」とかみしめていました。
――メダリストになったことについてどう感じていますか?
鳥海 大会後「メダリストって何だろう?」って考えた時に、僕は「メダリストだから」と特別に考えること自体、過信なのかなと思ったんです。例えば、僕がずっと大事にしてきた「人に対してきちんと接する」みたいなことって、メダルを取る前と何ら変わらないなと。メダリストになったから練習を頑張るわけでもないですしね。もちろん成長はしていくけれど、心がけとしてはこれまでとは何も変わらないなという結論にいきつきました。
――17歳で初出場したリオパラリンピックとは、さまざまな意味で全く違う大会となったのではないでしょうか。
鳥海 リオの時は代表12人に入ったのが、1年前のAOC(アジアオセアニアチャンピオンシップス)からでした。でも今回は、5年という歳月を代表活動に費やしてきた、その道のりを経てのパラリンピック。そういう厚みみたいなものが、まずリオの時とは全然違いました。
――リオでは叶わなかったスタメン出場を目指してきた中、東京では8試合中7試合でスタメンに抜擢されました。
鳥海 ベンチスタートだったリオの時は、試合を見ながら「ここで自分が出たら」ということを考えていました。でも先発が多かった東京では、周りとの合わせを大事にするためにコミュニケーションを図ることを心がけるなど、気持ちの矢印が自分という“内側”から“外側”に向いていたというのも、リオの時とは違いました。
――「リオの後に引退を考えたこともあった」という報道もありましたが、その真意とは?
鳥海 ちょうど高校3年生で進路を考えなければいけなかった年で、車いすバスケ以外の世界を見て、これからの人生設計をするというのも一つなのかなという漠然とした思いがあったんです。それで引退というはっきりしたものではなかったのですが、一度、車いすバスケから離れてみようかなと思っていたことは事実です。
――なぜ、車いすバスケから離れようと考えたのでしょうか?
鳥海 中学1年生から車いすバスケを始めたのですが、週末は一日中練習に費やし、夏休みには先輩の自宅に泊めていただきながら練習する毎日を過ごすなど、中学も高校も友だちと遊ばずに、車いすバスケに全力だったんです。だからリオが終わった時に「もういいかな」と。それで進路を考える際に、「一度、車いすバスケから離れてみるのもありかな」と思っていました。
――また車いすバスケへの熱量が高まったのはいつ頃だったのでしょうか?
鳥海 大学入学後です。「車いすバスケ選手として恵まれた環境をいただいている」ということを自覚していく中で、また競技に集中するようになっていきました。あとは大学1年の年にU23世界選手権という明確な目標があったことも大きかったです。拓ちゃん(古澤拓也)と「頑張ろうね」と言いながら向かっていく中で、気持ちにスイッチが入った感じでした。
――東京パラリンピックで高まった車いすバスケ熱を一過性に終わらせないためには何が必要でしょうか?
鳥海 僕自身、本業以外のさまざまなお仕事をいただいていて、自分を介して車いすバスケを知ってもらう機会が増えたことはとてもありがたいと思っています。ただ僕はあくまでも選手なので、そういうお仕事をすればするほど「やっぱり鳥海はバスケットボール選手なんだ」というところを示していかなければいけないということをひしひしと感じています。一番大事なのはプレーで結果を残し続けていくこと。それが車いすバスケの人気をさらに高めていくことにもつながるのかなと思っています。
――次のパリパラリンピックに向けての思いとは?
鳥海 これからの日本にとって一番重要なのは、強豪であり続けること。そういうチーム作りをしていくのは、これまでとはまた違う難しさがあると思っています。そして、世界は待ったなしで銀メダルの日本を攻略しようとしてくることは間違いありません。僕たちはそれを上回るレベルのバスケットをしなければいけない中で、年齢はまだ若い方ですが、2度のパラリンピックを経験した自分がチームを引っ張っていく存在にならなければいけないというふうに思っています。
――これからどんなプレーを目指していきたいと思っていますか?
鳥海 コービー・ブライアント(元NBAロサンゼルス・レイカーズ)のようなプレースタイルが目標であることは変わりません。そういう中で、東京パラリンピックでは周りを見てプレーすることだったり、インサイドでの強さというのはある程度、示せたかなと思っています。その一方で自分自身にプレッシャーに来させて、相手のディフェンスを崩せるようなことも必要だなと。なので3Pシュートを磨いて、シューターとしても脅威を抱かせるような存在になりたいと思っています。
――今年は、U23世界選手権が千葉市で開催されます。
鳥海 自分がプレーで引っ張ることはもちろんですが、後輩の選手たちに対してはいかに彼らに代表であることを自覚してもらうかが大事かなと考えています。それこそ僕たちA代表組に頼るばかりじゃなくて、「ここは自分がシュートを打つ」というような強気の姿勢を見せてくれる選手が増えていくといいなと。そういう一人ひとりが活躍できるようなチームとして、優勝を目指したいと思っています。