2022.03.11

【短期連載・TOKYOの先へ】宮島徹也「寂しい思いをさせてきた息子たちへの思いが一番のモチベーションに」

インタビュー第10回は、2008年北京から4大会連続でパラリンピックに出場した宮島徹也 [写真]=斎藤寿子
フリーライター

 東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。日本列島を熱狂させた選手たちに東京大会での戦いの日々、そしてこれからについてインタビューする。第10回は、チーム最年少19歳で出場した2008年北京から4大会連続出場となった宮島徹也(富山県WBC/オー・エル・エム・デジタル)。“ディフェンスで世界に勝つ”をテーマに掲げた男子日本代表のなかでも、京谷和幸ヘッドコーチから全幅の信頼を寄せられるほどのディフェンス力を持つプレーヤーの一人だ。常に積極的にリバウンドに飛び込むなど、献身的なプレーでチームに貢献し続けた宮島にインタビューした。

取材・文=斎藤寿子

自信があった後輩と築いた強固なディフェンス力

――4度目の出場にして初めてメダルを獲得した東京パラリンピックを振りかえってみて、いかがですか。
宮島
 新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受けて歴史的にも初めて1年延期されての開催だったわけですが、半年ほど経った今でも、開催されて本当に良かったなと思える大会でした。僕たち自身も結果として銀メダルを獲得することができましたが、それは本当に感慨深いし、うれしいことでした。

――ご自身にとって、一番印象に残っている試合は?
宮島
 準決勝のイギリス戦です。僕自身、長い間イギリスとは何度も試合をしてきましたが、一度も勝ったことがなかったんです。そのイギリスに勝って、メダル獲得が決まったことが本当にうれしかったです。ゲーム終了の瞬間、僕はベンチにいたのですが、いろいろとこみあげてくるものがありました。

――その準決勝の第1クォーターの後半に同じ富山県WBCの後輩、岩井孝義選手と一緒にコートに出て、しっかりと役割を果たしました。
宮島
 試合の入りで超ビッグマンのリー・マニングにインサイドをやられていたので、交代するときに孝義と2人でそこを絶対に止める、という意識でコートに出ました。実は東京パラリンピックでは孝義と2人で交代することが何度かあって、その時間帯は僕ら2人のサイドからは1点も許していなかったんです。だから孝義と言葉を交わしたわけではありませんが、お互いにそういう気持ちがあったと思います。実際、マニングには1点も許さないディフェンスができたので、「ディフェンスで世界に勝つ」というテーマをしっかりと体現できた試合だったと思います。

――チームにとって一番ターニングポイントとなった試合は?
宮島
 予選リーグ第3戦のカナダ戦だったと思います。リードを許していても、途中で諦めることなく粘り強く戦い続けた結果、前半で11点ビハインドを負いながら、後半に逆転して勝ち切ることができました。もちろんこの試合だけではありませんでしたが、さらに勢いをつけて次の試合に向けていくことができたという意味では、カナダ戦が一つポイントになったように思います。

4度目の挑戦でついに初のメダルを獲得した[写真]=Getty Images

子どもたちの記憶にとどめてほしかった東京パラでのプレー

――東京パラリンピックにたどり着くまでの道のりで、一番大きな出来事は何だったでしょうか。
宮島
 実は前回の2016年リオパラリンピック前からずっとケガをした状態でした。いつもお世話になっているトレーナーの方にケアをしていただきながら、なんとかプレーを続けていたという感じだったんです。トレーナーのサポートがなければ、東京パラリンピックにはたどり着けなかったと思うので、本当に感謝しています。

――ケガをおしてまで東京パラリンピックに出場するという強い気持ちは、何が一番のモチベーションになっていたのでしょうか。
宮島
 僕には3人の息子がいるのですが、これまでは幼い子どもたちには父親がパラリンピックでプレーしている姿はあまり覚えられていませんでした。いつも休みの日には練習で自宅にいなくて寂しい思いをさせながら、父親が何をしているのかわからないというのはすごく寂しいなと。だからとくに上の子どもはもう小学4年生なので、父親である僕が戦っている姿を見せて記憶にとどめてほしいという気持ちがありました。そういう子どもたちへの気持ちが一番のモチベーションになっていました。

――実際、東京パラリンピックでプレーする宮島選手を見て、息子さんはどんな様子だったのでしょうか。
宮島
 残念ながら無観客試合になったので会場で見てもらうことはできなかったのですが、それでも自宅のテレビで妻と子どもたちで全試合を見てくれていたみたいです。あとで妻に聞いたら、決勝でアメリカに負けたときは、上の息子が悔しがって泣いたんだそうです。でも、僕が帰宅をして子どもたちに銀メダルをかけてあげたら、すごく喜んでくれて、本当に頑張ってきて良かったなと思いました。

――銀メダリストの父親は、息子さんたちにとっても自慢でしょうね。
宮島
 いやぁ、どうでしょうか。上の2人の息子は、今ミニバスをやっているのですが、僕の良くないパフォーマンスをしっかりと指摘してきてくれましたからね。まぁ、でも少しは自慢できるパパになれたのかなぁと思います。

子どもたちへの気持ちが一番のモチベーションに[写真]=Getty Images

メダリストとして子どもたちの夢や目標の原動力に

――銀メダリストになったと実感した瞬間はありましたか。
宮島
 地元に帰って来てからですね。僕は毎朝の散歩が日課となっているのですが、まったく知らない人から「見てたよ。感動をありがとう」なんてお礼の言葉を言ってもらうこともありました。また、僕はケガをする前には健常のバスケットボール部でプレーしていたので、バスケットをやっている人たちから「車いすバスケ、面白いね!」と言ってもらえることが増えたことが、競技者としてすごくうれしい。僕たちのプレーでそういうスポーツとしての広がりを感じられる機会も増えたので、銀メダルを取れて良かったなと思っています。

――メダリストとして、どんな役割があると思いますか。
宮島
 子どもたちにとってメダリストってやっぱり影響力は大きいと思っています。ある小学校で講演をさせていただいたのですが、その後にある男の子が「宮島選手の話を聞いて、将来NBA選手になるための挑戦を決めました」と報告してくれたんです。そんなふうに子どもたちが夢や目標を持って頑張れる原動力になれるような存在になれたらと思っています。

――では、宮島選手自身の今後の目標を教えてください。
宮島
 まずは所属する富山県WBCには、孝義だったり、U23の代表候補になっている選手だったりと若手がいるので、彼らに伝えられることはすべて伝えたいと思っています。人数は決して多くはありませんが、次の天皇杯ではチームの目標であるベスト4を目指して、みんなで頑張っていきたいと思います。僕自身の代表活動においては、今は何とも言えないですが、まったくこれで終わりというふうに決めているわけではありません。体と相談をしながら、もしチャンスがあるのであれば頑張ってみたいなというふうにも思っています。

今後はメダリストとして、子どもたちの原動力になれるような存在を目指す[写真]=Getty Images

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